東日本大震災からもう3年が経った。復興はまだまだだそうだが、被災した地域の繁栄を祈って已まない。それほど甚大な被害を受けた地域の復興には時間がかかるので、地元の住民の努力や気力に対して敬意は表したい。
3年前を考えれば、私の被害は数時間の徒歩帰宅に留まったので、免れたと言える。しかし、将来には首都圏は震災によって襲われるのは確実だが、常時に準備を完備させるべきだ。
家も怠っている。懐中電灯や携帯ラジオ、乾電池や小型太陽光充電器があるし、飲料水の三日分は備蓄している。非常グッズの一式も書いておいたので、一応最低限がある。しかし、政府の基準は一週間分の食糧や飲料を備蓄することだそうだから、まだ足りない。そして、卓上コンロを買うつもりだったが、まだ出来ていない。緊急性は感じないので、後回しされがちだね。今年の信念抱負だったのに、進歩は目立たない。やはり、日常的な用事や真由喜の入学が優先される。
これは私だけではないようだ。先日のラジオニュースによると、一週間分の備蓄がある人は、4%にとどまるそうだ。私たちと同じく三日分がある人は、2割程度だそうだ。
この事実を考えれば、災害後の問題が孕まれることに気づく。仮に、私たちが準備を関税させれば、同じ地区に住んでいる人には備蓄は出来ていない人は圧倒的に多いはずだ。では、災害から三日間が経ったとしよう。その時点で、一周間分を備蓄した人は、まだまだ大丈夫だが、周りの人には食糧はなくなる。どうすれば良いのだろうか。
備蓄した糧を占めて、自分で食べても良いか。所詮、他の人にも備蓄する機会はあったが、見逃した。だから、分ける義務はないだろう。しかし、備蓄をちゃんとしたら、家にはまだ美味しいお菓子があるし、毎日違う食事ができる。周りには、口にするものはない人は多い。
では、分けたら良いのだろうか。しかし、備蓄していない人は過半数を占めるので、備蓄は自分の需要に足りなくなる。備蓄した意味がなくなる。
災害の前に、自分の備蓄が出来たら、周りの人に備蓄を促進するべきだろう。しかし、それはちょっとくどいような気がするし、失礼になりがちだ。周りの人は子供ではない。
まぁ、この問題がそもそも必要とならないと良いし、自分は備蓄するべき事実には変わりはない。
ところで、このことで少しずつする方法が効かないようだ。それより、一気に一部分を済ませて、そしてその備蓄の維持に努めたほうが良いようだ。だから、次の一部を選ばなければならない。何の備蓄すれば良いかな。