3月3日の『神社新報』の論説は、女子神職についてだ。基本方針として、女子神職を擁護して、神明奉仕は男子神職と変わらないと主張する。ただし、途中で女人禁制の祭祀に触れて、このような伝統を維持するべきであるとも主張する。
この点で問題が発生する。
私は、伝統を容易に廃るべきではないと思う。だから、長い女人禁制の歴史を持つ祭祀を女性に開放することを慎重に考えなければならないとも言いたい。神道には歴史と伝統は特に重要であるとも言える。
一方、女人禁制の重要な祭祀があれば、その神社で女性が宮司まで昇進することはできない。女人禁制の祭祀が複数の中枢的な神社にあれば、女子神職の活動を制限する。そうではなくても、神社界が女子神職を男子神職と同じように歓迎するとは言えない。男女平等は必須だと思うのでそれは許せない。
それでも、男性と女性が全く同じ役割を担う必要はない。男性と女性が違うのは明らかだし、子育てで子供を産むのは女性だし、授乳できるのも女性だ。男性と女性の相違点がこの分野に厳しく限るはずはないし、伝統的な役割分担を伝統文化の分野で保っても良い。だから、女人禁制の祭祀と男人禁制の祭祀があったら良い。
問題は、私が知っている限り男人禁制の祭祀は存在しない。有名で長い歴史を持つ男人禁制の祭祀は、神道には見えない。終戦まで女子神職は認められていなかったので、ごく当たり前な状態だ。女子神職は存在しなければ、男人禁制の祭祀は保持できない。飛鳥時代まで遡ったら存在したかもしれないが、奈良時代になってからも消えていただろう。だから、このように平等と多様性を保つことはできない。
一つの解決策は、男人禁制の祭祀を導入することだ。女性が宮司を勤める神社も存在するので、その神社に男人禁制の祭祀を導入することはできる。もちろん、そうすればこれからその神社の宮司は女性でなくてはならないが、女人禁制の祭祀を持つ神社と相当する。均衡があれば、問題にならない。
しかし、これで問題解決に完全にならない。女人禁制の祭祀は、歴史は長くて文化的な地位は高い。例えば、宗像大社の沖ノ島は女人禁制で、海の正倉院と言われるほど歴史へ古くて重大である。新しく創作された男人禁制の祭祀は、この島の祭祀と匹敵しない。これと直面するために、女人禁制はない同じぐらいの歴史を持つ祭祀を探さなければならない。すぐに思い浮かぶのは、大神神社での禁足地の中の祭祀だ。実は、宗像大社と同じぐらいの歴史があるのは、大神神社や出雲大社ぐらい。大神神社の禁足地の祭祀を男人禁制にしたら、それは宗像大社の沖ノ島と対になって、全体的に均衡を保つ。もちろん、大神神社の宮司が必然的に女性になる。
このような措置を問題として思う人は、女性がなぜ既存の女人禁制を問題視するかは分かるだろう。気持ちは同じだ。平等を認めながら伝統を保ちたかったら、このような革命的な措置は必要だと思わざるを得ない。