唯物論が意識を説明するときに、脳から発生すると言うしかない。脳細胞が絡んで、意識を発生するということだ。
詳しい過程は分かっていないが、それは致命的な問題ではない。進化論の詳細が分かる前にも、進化論によって生物を理解できることは分かったので、詳細を検討しながら進化論を提唱しても良かった。脳細胞と意識の関係も同じだ。
意識というのは、経験をすることだ。意識不明になれば、意識はない。脳細胞がこの意識を発生する過程は分かっていない。
そして、脳細胞がいつも意識を発生するわけではないことも周知の通りだ。意識不明になることはできる事実から明らかだ。その上、心理学の実験で、脳の中の過程の大半は、無意識であることも分かった。実は、意識的にする決断の一部でも、本当は未意識で決まって、決まってから意識に報告されているようだ。だから、意識をしている時でも、脳の働きの大半は無意識である。
唯物論には説明責任が置かれる。
まず、物質的な動きがどうやって意識に発展するか。この問題について、まだ答えの始まりさえない。
そして、どの動きには意識が伴うかという問題だ。この問題については、答えへの模索があると言えよう。例えば、脳の特定の部分で、自分を指す動きがあれば、それは意識であると言われる。この答えは十分ではないが、第一歩になるだろう。不十分である理由は、無意識の決断をとるために、自分と他の物質を区別して、自分の動きを定めなければならないからだ。そうするために、自分を指すところは必要だ。
脳の中には無意識の過程は多いことから、唯物論の答えには条件を課すことはできる。まず、脳細胞の共通点は意識の原因ではない。脳細胞が動いても意識はないケースもあるからだ。だから、量子論の動きが説明になりそうもない。量子論的な要素は、脳細胞の全てに共通するからだ。同じように脳細胞の繋がり方は共通されるので、これも意識の基盤にはならない。脳細胞の構造等は、意識の必要条件になることは考えられるが、十分条件にはならない。
今のところ脳の中でどちらの部分で意識が発生するのはまだ定かではないとはいえ、候補がある。しかし、その部分がどのように脳の残りから異なるかは、私が知っている限りまだ不明だ。その相違点が明らかになっても、なぜ意識が発生するかは、説明するべきだ。
魂を導入すれば、話は次の通りだろう。魂は意識だ。魂が脳と連携するところは、脳のこの部分だ。だから、この部分では魂と連携するための要素があるはずだが、この要素から意識が発生するわけはない。魂が連携できる要素は、脳の他のところにもあるだろうが、魂がその部分と連携しない。同じように、その脳細胞でも、他の脳細胞と連携できるが、全てと連携しない。つまり、魂が存在すれば、脳細胞に相違点を見つける必要がなくなる。
つまり、唯物論で意識を説明しようとすると、二つの問題点がある。一つは、意識と関わる脳細胞と他の脳細胞との相違点を発覚することだ。それは、今の研究プログラムでできる可能性がある。もう一つは、その相違点がなぜ意識を発生させるかとの問題である。ただの組み合わせであれば、意識が発生する理由は明らかではない。
ただし、まだ問題が残る。それは、次の投稿で取り上げたいと思う。