痛みはなぜ嫌なのか

この投稿の問題は馬鹿な質問に聞こえるだろう。痛みは痛みだ。だから嫌だろう。痛みを感じたことはないの?と聞きたくなるぐらい。

しかし、よく考えたら、難しい問題だ。

痛みを嫌に感じるのは、意識の中で体に怪我があることは脳で受け取った現象は、嫌な意識を発生させることだ。ただし、なぜそうするのだろう。

わざと怪我をしないためだろう。

残念ながら、それは説明に至らない。脳の中で物質的な動きで、痛みを感じればそのようなことをしないように脳細胞の組み合わせを調整すれば、もちろんそのような状況を避けようとする。意外に簡単な仕組みでこの結果が発生するようだ。意識で嫌な気持ちをさせる必要はない。

そして、意識がどうやって脳細胞から活性するかについての理論もあるが、その理論はあくまでも「このような仕組みがあれば、意識がある」という。意識の本質について何も言わない。その場合、痛みがいつも痛いとは思えない。むしろ、痛みは楽しい気持ちなのに、その気持ちを避ける行動をとることは可能。

痛みは嫌であるのは当たり前すぎて、不可解さに気づかない。

もう一つのことは考えてほしい。健康に悪い経験は必ずしも嫌であるとは限らない。チョコレートを沢山食べることは決して嫌ではないが、健康には悪くなる。麻薬を服用することは健康に極めて悪いが、嫌ではない。

その理由として、次のような説明がある。

人間の経験への反応は、進化によって形になっている。体を破損することを求めた動物は、すぐに死んでしまったので子孫は少なかった。一方、破損された状況を避けた動物は生き残って、子孫も残した。だから怪我が嫌になった。一方、砂糖や脂肪を大量食べるのは、十万年前には無理だった。そのような食物はなかったからだ。むしろ、砂糖や脂肪不足になる恐れは多かったので、砂糖や脂肪を見つけたら、食べるべきだった。だから、生物進化に作られた本能で、大量の砂糖や脂肪を食べることは良いこととして位置づけられる。環境が変わったが、進化はそれほど速くない。

この説明は良い説明だ。ただし、意識に及ぶために、意識が死活と関わる必要がある。人間の決意は意識そのもので決まっていなければ、進化と関わらない。人間の行動は意識ではなく、脳細胞の物質的な動きによって左右されていれば、痛みの感情は進化によって調整されない。

だから、痛みの嫌さを説明するために、次のような話は必要なのではないかと思う。

人間の長期的な戦略は、意識で決められる。この意識で決まったことは、脳細胞での本能より強い。だから、怪我は楽しかったら、如何に脳細胞で避けようとしても、人間は意識で求めることにして、体を破壊させる。痛みを楽しく感じる人間の殆どが死んでしまったので、痛みを嫌に感じることが基本となっている。

意識が脳細胞の仕組みの副作用であれば、このようにならない。進化が調整するのは、脳細胞の仕組みのみであるので、感情はどうなるかは関係ない。感情は嫌だから避ける関係はない限り、嫌な感情を発生させる仕組みを選出することはできない。

だから、唯物論では、避けさせる脳細胞の仕組みは、必ず嫌な感情を発生させるとするしかない。しかし、そうすれば意識の説明がさらに難しくなる。物質的な仕組みには様々な可能性があるので、その根本的に異なる仕組みからいつも同じ感情が発生することは極めて信じ難い。

この現象は、魂が存在することを確実にしない。ただ、物質ではない魂が存在する可能性を真剣に考えるべきであることを確実にする。霊魂の仮説にはまだまだ問題は多いので、次の投稿でその問題についてちょっと書きたいと思う。


投稿日

カテゴリー:

投稿者:

タグ: