霊魂と関わる問題

では、霊魂の理論で、どのような問題は解決できるのだろう。

先ずは、どのような存在には意識があるか、と言う問題だ。

人間を模する絡繰りを買ってもよいだろう。そして、つまらなくなったら、砕いてもよいだろう。

人間を買っても良いだろう。そして、つまらなくなったら、砕いても良いだろう。

絡繰りには問題はないと思う人は多いが、人間の場合はだめだと思うのは当然だ。常識だ。では、何が違う。

もちろん、意識の有無である。人間の形の絡繰りには意識はないので、砕いても問題ないし、売買しても良い。人間には意識があるので、そう出来ない。

では、人間にはいつ意識があるのだろう。胎児は、いつから意識があるのだろう。意識はないと、中絶には倫理的な問題は一切ないが、意識がつけば、もう殺人になる。受精の瞬間から意識があれば、中絶はいつも殺人である。それはカトリック教会の主張であるそうだ。霊魂を信じなければ、意識を支える仕組みはないのは明らかだが、霊魂の可能性を認めれば、もうそれほど簡単に片付けられない。胎児は人間である可能性に配慮しなければならない。

人生の最期にも同じ問題がある。意識が永遠になくなった人はもう体だけだから、機械で肺を動かしたり血液を循環させたりする必要はない。そして、内蔵を収穫して、他の人の生命を救うべきだ。しかし、意識が残る限り、そうするのは殺人だ。

この二つの問題は重要な倫理的な問題であるが、根拠のある解決のために確かな意識についての知識は必要不可欠である。

類似する問題もある。それは、動物の権利だ。

歴史的に、女性や黒人の人権を侵すことは多かったが、社会の改善と共にその問題が一段和らいだ。まだ完全な解決だとは到底言えないが、少なくとも大幅にましになった。では、黒人には白人と同じ権利があるのはなぜなのか。それは、肌色は何であっても、本質は同じであるからだ。では、その本質は何だろう。知識などは人によって異なるので、根拠にならない。根拠にされるのは意識や意志だ。黒人も白人も、感情もあるし目的もある、自分の人生を管理する権利がある。

では、動物はどうか。動物にも意識があれば、食べるために殺すのは許してはならない。意識はなければ、問題はない。テーブルを解体することと同じになる。動物には意識があるのだろう。決めるために基準はないが、霊魂の理論があったら、基準を提供することはできる。

実は、パソコンも同じだ。唯物論に基づいた意識の説明の一部は、コンピュータにも意識があると主張する。(全てのコンピューターではないが、適切なソフトがあれば、コンピューターにも意識、そしてけんり、がある。)本当にそうだろう。意識や霊魂についての理論で、この質問に答えられる。

関わる問題は倫理的な問題だけではない。延命の問題も関わる。先端の技術を使って、体を部分的に金属や機械で補足できるようになった。これを匠にすれば、人を無死に出来るのではないかと思われる。しかし、そうするために脳みそをコンピューターにしなければならないともよく思われる。そうすれば、意識は本当に保たれるのだろう。理論があれば、答えられるようになる。治療にも関わる可能性がある。体を動かせられない人にはまだ意識が残るかどうか、確実に判断できるようになるだろう。

その上、理論があれば、理論はない家に想像もできない可能性が広がる。

だから、意識がなぜ霊魂から発生することは当初に説明できないとしても、有意義な理論が発明できると言えよう。

私には発明できるというのは、全く別な問題なのだけれども。


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