共同体の祭り

神社神道では、共同体の祭りは重視される。つまり、個人や家族の願い事に関わる祭りより、共同体全体と関わる祭りの方が重要である。祭りを大祭、中祭、小祭に分けるが、個人や家族の祭りの全ては小祭だ。初宮参り、七五三、結婚式などは例外なく小祭にされる。

現存の共同体の祭りを考察すれば、農耕関係の祭りは多い。全国の神社で共通する祈年祭と新嘗祭は豊作を祈る祭りと収穫を祝う祭りで、伊勢の神宮の神嘗祭は収穫の祭りだ。近所の白幡八幡大神の祭りにもう同じ傾向が見える。先日の初卯祭は、豊作か凶作を占う神事が中心となる。(今年の矢は、的に殆ど当たらなかったので、予報は良くない。)田植え祭や抜き穂祭は明らかに農業関係だ。

神道についての著書で、稲作は神道の祭りの中核であると述べ、稲作はなかったから縄文時代の信仰を神道とは言えない主張するケースもある。農業祭りはそれほど重要である。

しかし、現代ではその事実が大きな問題を生むと思う。

神社界が懸念する現象は、祭り離れやイベント化だと言える。地元の神社の祭りに参加するより、有名な神社の祭りを見物するために旅する傾向は強くなっているようだ。しかし、神道の本来の形は、地元の共同体の祭りを共同体で執り行うことであるのは広く思われているようだ。地元の祭りの関心を募る方法は話題になっている。

考えれば、基本的な問題は二つあると思える。

一つは、社会の構成の変更だと言えよう。つまり、百年前まで、家族が代々同じところに住んで、子が親の跡を継いだ。だから、共同体の祭りは子供の頃から参列した祭りだったので、懐かしく感じたし、参列する方法は当たり前だった。そして、その地区の住み着いた家族に役割を与えて、輪番で担ってもらう制度の基盤は堅固だった。

しかし、現在の状況が大きく変わった。地方で、過疎化が進み、跡継ぎがなくなる。代々住み着いた家族の新世代が都会へ流れてしまうので、祭りを担うことは出来なくなる。都会から地方へいわゆるIターンをする人が転入しても、指定された家族ではないので、祭りに参加できない。都会で逆の問題がある。住民の大半は、別なところから移住したので、地元の祭りとのつながりを感じないし、住み着いた家族との関係もない。

この問題に対応するために、排他的な祭り体勢を廃止するしかない。明治時代からの「氏子」の定義は、氏子区域に住む人だが、祖先がどこに住んでいたのは関係ない。対策として、述べるのは簡単だが、実現するのは難しいだろう。

それでも、もう一つの問題が残る。

過去から受け継いだ祭りは、現代人の生活とは無関係だ。私は、農業と関わらない。豊作か凶作か、間接的に影響されるが、その影響は少ない。この実態は良いことだと思う。人生がその年の収穫によって決められる状態は人間の発展には良くないからだ。しかし、農業祭りへの関心が低迷するのは当然だ。

実は、平安時代から同じ現象が見える。京都市の祭りは、農業以外のことと関わる場合は多い。例えば、祇園祭は、農業ではなく、疫病除けの目的に設けられた。火除けの信仰の広がりも同じ現象だ。残念ながら、現在この世界で疫病も火災もそれほど気にならない。医療も進んだし、消防車もよく効く。

これで、解決策の概念が見えてくる。現代社会に住む人が関心を持つことについての祭りを創作したら、参加を呼びかけることもできる。そして、新しい祭祀だから、歴史的な氏子体勢を超えた形でも実現できる。問題は、具体的にどのような祭りがよいのか、という疑問だ。その件について、次回ちょっと論じたいと思う。