現代の祭り:恊働儀礼

通過儀礼が共同体の個人を礎とするが、共同体そのものを礎とするのが良いと思える。なぜなら、「共同体」は個人の集まりだけではなく、個人と区別できる存在であるべきだからだ。

水稲農業は、必然的にこのような共同体を生み出す。灌漑を整えるために、集落の住民が皆一緒に努力する必要もあるし、用水の配分にも協力は必要不可欠だ。だから、稲作と関わる祭りが当然住民の大半の関心を集めた。疫病除けの祭りも同じだった。都会に住んだ人は、疫病を恐れるのは避けられなかった。このような出来事と関わった祭祀は、住民の大部分を惹いた。

一方、現在の社会にはそのような共通点はないと言えるほどだ。自動車工場で働く人と隣に住んでいるコンビニを経営する人、そして向こうに住む高校教諭は、生業の共通点はない。それに、農業のように年毎に回ってくる事業もない。教諭には入学や試験があるが、コンビニの経営には季節の性質はあまりない。だからこそ、季節商品を強調するだろう。工場の仕事では、コンビニの季節性さえないだろう。

つまり、自然な共同体の祭りはない。

この問題に対応するために、恊働で行う事業を作成しなければならない。

恒例の祭りになるために、毎年繰り返す事業は必要だが、明らかな意味がある事業ではないと存続しないだろう。そして、祭り自体を事業とすることは出来ない。観光のために祭りはそうであるだろうが、信仰の意味がある祭り、祭り以外の事業のためでないと効果は期待できない。このような事業は、地域の特性に配慮して考えて立ち上げるべきだから、ここで具体的に何も言えない。

永遠まで続ける事業は発明しにくいだろうが、別な方針もある。それは、一つの事業が終わったら新しい事業を発足することだ。そして、毎回祭祀を行う。ただし、発足の祭祀が恒例化しない限り、伝統の祭祀を作ることはできない。だから、永遠の事業を発明した方が良い。

永遠までの事業を抽象的に考えれば、教育と広い意味で美術が思い浮かぶ。教育は、いつも新しく生まれる人がいるので、毎年必要となる。美術は、新しい作品を出す可能性はいつでもある。このような概念で、問題は共同体を一斉に取組む姿勢だ。教育は教師に、美術をアーチストに任せることは多い。そして、結果の重要性を実感させる方法も考えなければならない。農業の時代、失敗したら死ぬので重要性を痛感するのは当たり前だが、社会が進化すると一つの失敗で死ぬことが幸い少なくなる。

過去の状態が戻ってこないので、恒例の祭祀を共同体全体を惹くようにするために、前例を乗り越えて考えなければならない。その場合、失敗に終わるアイデアは多いが、この失敗を冷静に受け止めて、次の可能性と取組むべきだ。