先ほど大騒ぎになったSTAP細胞はさらに大騒ぎになった。理研は、捏造と改竄があると判断したが、小保方氏は不服するそうだ。そして、共同研究を行ったアメリカのハーバード大学の教授も、論文の取り下げに反対しているそうだ。捏造と改竄があれば、取り下げは当たり前なのではないかと思われるし、捏造などはないと、研究家がそれを認めるはずもない。そして、調査委員会が捏造と改竄を認めたものの、STAP細胞について何も言っていないことも不思議に思われるだろう。
実は、全然不思議ではない。
先ず最初に、小保方氏がこの結果を完全に捏造した可能性は極めて低い。ゼロではないが、そのような行動は本当に分かりづらい。何故ならば、これほど学界の常識を覆す結果であれば、研究者によって厳しく追究されるのは当たり前だし、誰だって、事前にそうなるのが分かる。完全に捏造されたら、その追究で明らかになるに違いないので、メリットは全くない。堂々と嘘をついたらその結末をちょっと先送りできるかもしれないが、その間白い目にあって、キャリアには利益はない。
だから、確率は圧倒的に高い状態は、少なくとも小保方氏は真摯に研究を進めて、この結果を本当に信じている状態だろう。
では、そうであれば、なぜ他の研究者は復元できないか?そして、なぜ捏造があるか?という質問が浮かび上がる。
前者は先に。新しい実験を復元することは簡単ではない。最近のネイチャーで数十年前の抗体の研究の結果の復元に問題があったし、論文の取り下げを求める声も多かったが、結局研究の成果は確実になって、数千億円規模の薬品市場に成長してきた。小保方氏が数年間を費やした研究は、他の研究者は数週間以内復元できない状態は、驚くほどではない。確かに好意な状況ではないが、研究に大きな疑問点を付ける状況でもない。
それはそうであるとしても、捏造の問題はどうだろう。ここでは問題はあると言わざるを得ない。小保方氏は、してはいけないことをしたと思えるが、成果を捏造したとは限らない。
例えば、ある写真は複合写真であることはほぼ確実になっている。可能性がある経緯は下記の通りだ。
ネイチャーでは、論文に載っている図や写真の数には厳しい制限がある。そして、出版される前に論文を読んだ研究者は、小保方氏に様々なことをはっきり示すように指摘した可能性は極めて高い。それはいわゆるpeer reviewの普通の形だからだ。小保方氏は手許にある写真を考察すれば、一枚には一点ははっきりだし、もう一枚でまた一点ははっきりだが、その点は両方はっきりになる写真はない。確かに見極めれば、両方の写真で見えるが、他の研究者はもう「明白度は足りない」と判断した。その上、ネイチャーの制限で、二枚を論文に載せることは許されない。そして、写真は実験の成果だから、簡単に全てが明らかになる写真を作成することはできない。それは完全な捏造だ。だから、はっきりになった点を複合して、一枚に納める。捏造した写真だが、結果の捏造ではない。
そして、やり方の説明の所には盗用の表現があると言われる。これは実は当たり前の問題だ。英語はネイティブではない研究者は、やり方を自分の言葉で分かり易く説明するのは大変な苦労だ。その上、やり方は部分的にその分野でよく行われることだから、既刊の文章は今使用した方法を正しく描写する。だから「借りる」。
これは両方してはいけない行動だ。しかし、悪いのは一概に論文を書く人だとは言えない。前者で、論文誌が事実を認めて、写真の枚数を増やすべきだろう。後者は、母国語は英語ではない研究者に使用自由な方法説明文を提供したほうが良いだろう。そのような措置は存在しないかぎり、苦労がさらに必要となるが、重要な結果があればどうしても出版したいと思うことは当然だ。
その上、この好意は、結果に疑問点を付けない。後者では明らかだ。方法は標準であるからこそ信憑性が高まるので、疑問点を払拭する傾向さえある。前者も、実に存在する証拠しか使わないので、結果は妥当である可能性はまだまだある。
だからこそ、理研の調査委員会が慎重に発表したと思える。小保方氏の論文には、このように説明できる問題しか存在しないと思っても良い。これからの復元実験と取組む理由は、結局成果は真実であるかどうかを検討するためだ。このような研究が終わらない限り、判断できない。結果は幻想であっても、捏造ではなく間違いである可能性はまだ高い。
新しいことを明らかに使用とする研究は、誠に困難な活動である。