科学の研究はやるべきことだと思う。知識を増すことは、人間として本来の相応しい行動の一つだと思うので、そのような研究を高く評価する。理化学だけではなく、歴史の研究も社会学の研究も重要であると思う。大学は、文明の重要な果実であるとも思う。国家は、住民がこのような研究を励むこと、そして支援することを高く評価すべきし、なるべく可能にした方が良いと思うことも当然だ。税制での控除とか、手続きの簡潔化などの政策はもちろん望ましい。
しかし、国家の支援は別な問題だ。国家の支援は、住民から強制的に徴収されたお金を国家が選ぶ目的に注入することだから、その目的は国家の決めるべき範囲に入るかどうかを慎重に考えなければならない。住民が研究を支えたいと思ったら、国家が支えるための措置を用意したら役目が終わる。住民に支える研究を選ぶ自由を保障するべきであるからだ。
だからといって、国家は研究を支援すべきではないというわけではない。住民の自由を増す研究を支援するのは、国家の義務の一つだ。
科学研究の成果で、不可能な自由が可能になったことを枚挙に暇がない。このブログ自体はその具体例になっている。私は重大であったころに、このように不特定多数な人に自分の考えを披露することは無理だった。世界中の人に披露することは更に無理だった。この自由に伴って、もちろん不愉快なこともあるが、ウィキペディアのように大変便利なこともある。そして、ウェブは国際的な公費で運営された研究所で開発されたことは忘れてはならない。国家がただ単に今可能な自由を最大限にさせようとしたら、長期的に考えれば自由の制限は厳しい。だから、自由を増す研究を支援するべきであると述べている。
住民の自由に貢献することを基本とすれば、一見で基礎研究は除外されるかのように見えるが、必ずしもそうであるとは限らない。分かり易い例を挙げよう。医学研究では、生物学の基礎研究の成果が大きく貢献することは少なくない。遺伝子についての研究は、長い間に直接に役に立たなかったが、つい最近に臨床で使えるようになって、近い将来の大きな成果も期待されている。コンピュータの基本となる部品も、基礎研究から誕生した。長期的に見れば、基礎研究にも力を注ぐべきであるとも言える。
とは言え、今のままで良いとは言えないだろう。例えば、恐竜についての研究は、住民の自由と繋がらないだろう。興味深い研究だが、国家が支援する資格はないと言えよう。同じように、基本素粒子物理学もそうだ。超長期を考えれば、自由と繋がると思えるが、短期的にそうしない。国家の限られた資金を別な研究に注げば、より早くより多くの自由を得る確率は高いようだから、そのように税金を使うべきだと思う。
ただし、このような研究を廃止するわけではない。資金を募集して研究を続けることも可能だ。特に恐竜についての研究は、寄付金で支えられるのではないか。素粒子物理学には数千億円の予算は必要だそうだから、さすがに無理があるが、国家が支援する研究の成果で素粒子物理学の研究を小規模な予算でできるようになる可能性もある。研究で増される自由の一つは、研究をする自由だ。