3月17日の『神社新報』によると、頒布された神宮大麻は去年875万体程度で、前年比で7万体以上減少したそうだ。それは式年遷宮が執り行われたことにも拘らず、それに参宮の人数は史上最高の水準に満たした年だった。神社本庁はこの傾向について心配しているようだ。十数年前に「1000万家庭」の目標を掲げて、頒布体数を増やそうとしたが、減少傾向が続いている。来年度から新しい施策を検討することになったが、私は根本的な問題があると思う。
その問題は、神宮大麻の役割だ。家庭に神宮大麻がある意味は、何だろう。
神社本庁が掲げる案は、家庭祭祀の重要性である。この概念に賛同できる。家庭祭祀に、家族を一致団結する力がある。そして、家族で感謝することを考えれば、そしてお互いに何を良くできたことを考えれば、家族の絆が強まる。その上、日常の問題を超越することについて考えさせて、身近な問題に捕われることも防げる。だから、家族祭祀を大事に思う。
ただし、神宮大麻は不要だ。厳密に言えば、神棚さえ不要だが、神道の家族祭祀のために神棚は必要であると言えよう。そう認めても、家族の祭祀の為に、産土神や氏神、そして家族に重要な崇敬する神は自然な拝む対象となる。もちろん、神宮が崇敬する神様になり得るが、どこの家族でも同じ神様を篤く崇敬するはずはない。冷静に考えれば、現在の875万世帯は適切なレベルなのではないかと思える。
つまり、家族祭祀だけでは、神宮大麻には特別な役割はない。確かに神社本庁によると神棚の中央に祀るべきだそうだが、その理由は言われていない。天照大神は日本人の総氏神のような存在である主張は理由代わりにある。しかし、総氏神を祀る理由ははっきり書いていないし、内宮は総氏神である理由も説明されていない。
江戸時代には、神宮大麻は多くの家庭で祀られたそうだ。その理由は御師がお祓いをして、神宮大麻を渡したからだ。この宗教的な行動で、人が特別な利益を期待したようだ。何の利益が思われたかは、詳しく分からないが、歴史を検討すればできる。幅広い分野で禍事などが払拭され、幸運になることだろう。
しかし、明治時代になったら、御師制度は廃止され、このような魔法的な力の発表も控え目になった。それでも、神宮大麻の浸透は素晴らしかったそうだ。家庭の9割以上が神宮大麻を祀ったような統計を見たような気がする。明治時代から終戦までの理由は何だろう。
もちろん、国家は神宮大麻を祀る行動は、日本人であること、そして愛国心を表す行動であると主張したことだった。強制的ではなかったと言えども、準強制的だった。国家が神宮と神宮大麻を国家の中枢に据えた。
戦後になったら、それが一変した。国家がもう神宮大麻は愚か、神宮の重要性さえはっきり認めない。それでも、神社本庁の書籍を見れば、今も神宮大麻を奉斎することは、日本人である精神の重要な一部で、愛国心の必須な行動であると思っているようだ。これを根拠として、国民に勧めようとする。しかし、ある行動を国家への忠実の表現として一番相応しいであると強調しても、国歌自体が否定すれば説得力は一切ない。国家は、神宮大麻の奉斎が愛国心を表現するとは言わない。安倍首相は実はそう思う可能性は高いだろうが、それでも言わない。
つまり、「愛国心」は、神宮大麻の奉斎の理由にもはやならない。そして、神社本庁はまだ江戸時代の宗教的な機能を発信しない。この結果、過去に神宮大麻奉斎の理由になった事実はもうない。だから減少傾向があるのではないかと思う。戦前に生まれ育った人は、子供の頃の当たり前があるので、まだ奉斎するだろう。そして、終戦直後生まれ育った人も、奉斎するだろう。ただし、都市に移住した人は、もう地元の伝統と切り離され、伝統だけで続かない。そのような人を納得させる理由は必要。
この投稿では案はない。それに、私は案はなくても良いと思う。家族祭祀で近所の氏神様と崇敬する神社の神札が奉斎されると良いと思う。神宮に対して特別な思いはなくても構わないだろう。神社本庁は、憲章で「神宮を本宗として仰ぐ」と定まっているので、神宮は特別ではないと言えないが、理由として何を挙げるのかは、私には分からない。