政治家を揶揄するのはよくあることだ。政治家にとって好ましくないだろうが、民主主義の要素の一つであると言われる。表現の自由の一番大事な自由であると言う人もいる。
目の不自由な人を揶揄するのは良くない。そうすれば、残酷な行為で、周りの人によって批判されるべきだ。これも、だれでも賛同できるのではないか。
もちろん、目の不自由な政治家がいれば、政治家として揶揄しても良いが、盲目であることで揶揄してはいけない。
私は、この判断に意義を申し立てない。適切だと思う。しかし、根拠について考えたい。
すぐに除外できる根拠は、人間への尊重である。人間を尊重することはとても重要であるが、政治家も人間である。人間を尊重することで揶揄できなかったら、政治家も揶揄できない。人の間に区別を付ける根拠は必要不可欠だ。
ここでよく提唱されるのは、社会的な力だ。政治家には権力があるので、揶揄は無力の人の抵抗する手段になる。強く抵抗するためには、揶揄しかないので、社会的な均衡を保つため弱者に権力者を揶揄する権利を保障しなければならない。それに対して、盲目な人の立場は大きく違う。見えないことで、社会的な立場が弱くなるので、揶揄することでさらに弱くするしかない。つまり、揶揄が弾圧の手法の一つになる。だから、政治家を揶揄しても良いが、盲目な人を揶揄してはいけない。
私も賛成だ。
では、問題解決だろう。まだだ。
ある人を揶揄するべきではない判断は、その人には力はないという判断と等しくなる。この判断自体には問題があるとは限らない。社会には力関係があるし、力にも格差があるので、弱者もいる。社会を考察して判断するのは必要だ。問題は、少しでも曖昧な場合に発生する。
私は、ある人には社会的な力はないと判断すれば、ある程度の子供扱いになる。力はないので、自分の立場を防衛できない。それはできないので、私は揶揄しない。私は、力のある人として、相手を支える。この態度が問題になり得るのは明白だろう。相手を人間として尊重する精神が欠けている。勝手に「弱者」の立場を押し付けて、精神力はないように扱うことになってしまう。
だから、勝手に決めるべきではない。相手に訊けば良い。「あなたには、社会的な力はないか?弱者なの?そうであれば、私は配慮して揶揄しない。」
ただし、相手には社会的な力がある判断は、問題にならない。だから、相手には力があると判断すれば、揶揄しても構わない。実は、富裕層の人が「私たちを揶揄するのはナチスの行動のようだ」と主張することがあったようだが、それは明らかに許してはならない主張だ。力があるのはバレバレだから、揶揄しても良い。
つまり、力を持っていると思う人を揶揄しても良い。力を持っていない人に対して、本人も力は持っていないと思っているかどうかを確認してから、揶揄するかどうか決める。
もちろん、揶揄する義務はない。批判の仕方の一つにすぎない。その上、場合によって有効な批判方法にならない。相手を怒らせるのは当たり前だろう。いつも慎重に選ぶべき批判方法であるが、人間尊重の為に対象外にする人は、自分も本人も力はないと認める人であると言えよう。