「言うな」と言うな

言論の自由を考えれば、好ましくない発言の批判方法も浮上する。

まず、マナーの問題がある。相手を馬鹿にするのは良くないと言えるが、揶揄と同じように言論の自由を保つために重要だろう。提案に強く反発するために、馬鹿にするしかない場合もあるのではないかと思える。それでも、普段は馬鹿にする表現を避けた方が良い。

一方、「言うな」の反応にはより根本的な問題があると言えるだろう。

「言うな」というのは、ある表現を直接に禁止しようとすることを意味する。例えば、「天皇を揶揄することを言うな」とか「人種差別的な表現を使うな」などが具体例である。ここで、「花子にはパーティのことを言うな」のような特定された場合に限る表現を除外する。これは批判ではない可能性も高いし、それに批判である場合でも、ただ「あの発言は相応しくなかった」という内容と等しいので、特定された発言の批判に過ぎない。発言を批判すれば、そのように言わない方が良かったのは当たり前だから、そう言っても問題はない。

一般の場合は大きく違う。言論の自由の立場から考えれば、この批判方法には問題がある。つまり、表現の一種を撲滅しようとする批判であることが問題になる。ある種の表現を禁止すれば、表現の自由が制限されるのは明らかだ。ただし、それで結論が成り立つわけはない。ただ単に人に「そう言うな」ということは、表現を禁じることではない。だから、「言うな」ということは、表現の自由と言論の自由に違反しない。

しかし、違反する心理を表すと思う。ある種の表現を言論から除外しようとするので、表現の自由には制限があるべきだと思うことを示唆すると言える。ある人の場合はそうではなくても、そのように周りの人を考えさせることがあるので、危ういと言えよう。

もちろん、表現を一般的に批判することはある。私も、人種差別的な表現を使わない方が良いと思う。その場合、どうすれば良いのだろう。

今考えている方法は、表現の問題点を具体的に指摘すると良いことだ。例えば、人種差別的な表現は、差別された人種の人に傷を付けるとか、事実的な根拠はないとか、よく間違う考え方と繋がるとか、周りの人が強く批判するなどの理由を掲げて、必要に応じて理由を付ける。そして、相手は考え直して、表現を使うかどうかをもう一度決める。

この方法で、自分の意見は充分明らかになると思うので、誤摩化すことはない。それでも、判断を相手に任せるので、言論の自由を侵さない。使わない方が良い表現があるのは事実だから、そのことを教えるのは弾圧的な行動ではない。理由を挙げたら、相手が賛同するかどうかを自分で決められる。

そして、言わない理由を考えて、それでもこの場合言った方が良いと判断することもあるだろう。それで言論の自由が見える。もちろん、批判しても良い。相手は、批判がくると予想したはずだ。相手がちゃんと考えたとしたら、この場合を例外とした理由も挙げられるはずだ。それを明白にすれば、言論が繰り広げられる。言論の自由を侵すどころか、言論の自由を強めることとなる。

それでも、日常生活の指針として簡潔にしたルールは役に立つ。毎回詳細を考えて判断するのは難しいし、余計な時間がかかる。だから、その簡潔なルールを覚えて、普段従った方が良い。特に問題になりそうな場合、詳細を考えて、例外を認めるかどうかを判断しなければならないが、その場合は少ない。

だから、絶対的に「「言うな」と言うな」とはもちろん言わない。上記の理由は、「言うな」という表現にも当てはまるからだ。しかし、上記の理由を踏まえて、簡潔なルールとして、下記の通りに堂々と言う。

「言うな」と言うな。


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