社会の中の世襲

世襲される特権や職業は、現代社会では広く批判されている。一方、過去の社会の殆どを見れば、世襲することは基本で、世襲に逆らうことは反社会的な行為として厳しく批判されたようだ。だから、世襲の問題や役割などを慎重に考えるべきだ。

まず、問題を明らかにしよう。ある役職や特権は世襲されたら、その家族に産まれていない人は、如何に努力しても、それに就くことはできない。例えば、私は日本の首相になれる。極めて難しいし、確率は低い方だが、可能だ。先ず日本国籍を取得して、そして国会議員に選挙され、最後に国会で首相に任命される過程だ。一方、天皇にはなれない。天皇の子孫ではないからだ。

この問題を重視する。なりたい地位を目指す自由は極めて重要だと思うので、最初からその可能性を奪うことは良くない。

もう一つよく挙げられる問題は次の通りだ。先祖として元々役職に就いた人にはそれなりに能力があったとしても、子孫には必ずしも能力があるとは限らない。だから、世襲を認めたら、能力はない人が重職に就いてしまって、様々な問題が発生する。

この問題について、慎重派になる。なぜなら、能力の大きな一部も、生まれつきのことだ。努力で一部は補えるが、限度がある。私は、子供の頃から如何に頑張ったとしても、オリンピック選手に慣れなかった。喘息があったので、できる運動には厳しい制限があった。そのため、オリンピックに必要な努力はできなかった。他の側面で能力があったかどうか分からない。(訓練できなったからだ。)しかし、あった証拠は全くないので、なかったと言えよう。そして、今喘息が治ったが、年をとったのでまた無理だ。

つまり、私は生まれつきの資質でオリンピック選手になれなかった。

機会を奪うのは、世襲制だけではない。能力主義もそうだ。

もちろん、能力がある人には機会を与えるのは良いと思う。それは自由の重要な一部。しかし、能力はない人にも機会を与えると良い。それも自由の一部。世襲は、機会を与える方法の一つだ。

このように世襲の社会的な役割を考えれば、子孫には能力はないからこそ、世襲で就職させるべきだ。

世襲は機会の得方として位置づければ、条件がある。先ず最初に、世襲を必要条件としないこと。家柄はない人も職に就けることは重要だ。(これで天皇制には問題があると言わざるを得ないが、特別で限定されている例外を認めることはできる。)そして、家柄によって強制的に職業に就かせることもダメだ。(これで天皇制の深刻な問題がある。皇室の方々の自由を奪うことだ。)つまり、家柄を十分条件にもさせられない。

この条件を合わせたら、家柄を一つの資格として扱うべきのではないかと思う。他の資格もあるが、家柄があれば、他の資格は不要。そして、場合によって家柄を能力より優先するべきだと思う。そうしないと、実際に能力主義から脱出されていない。しかし、能力のある人を就かせる場合もあるべきであるのは明らかだろう。

もちろん、世襲で得る資格は限定されているが、能力で得る資格に追加されるので、個人の可能性を広げる。そして、他の資格の種類も考えるべきだと思うが、今日の投稿で世襲をテーマとさせていただく。


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