過疎地の神社の維持策

『神社新報』で度々掲げられている問題は、過疎地に鎮座する神社の維持策である。概要は下記の通りだ。

神社は宗教法人であるから、行政からの助成金は原則として受けられない。(重要文化財などの神社は例外だが、そのような神社にはこのような問題はあまりないし、助成金は建物などの管理や修理に限られているようだから、日常的な運営とは関係はない。)だから、氏子崇敬者からのお金で維持される。それは奉納にせよ、ご祈祷のための初穂料にせよ、その神社と絆を感じる人から受ける収入だ。場合によって、土地を所有する神社はその土地の使用で収入を得ることもある。

過疎地に鎮座する神社は、同じ地域の所有する土地から収入を得られないし、氏子もいないし、普通の神社であれば遠距離の崇敬者もいない。このような神社が兼務社になる。「兼務社」というのは、神社の宮司は他の神社の宮司でもある状態を指す。兼務社が20カ所を超える場合は少なくないそうだし、極端の場合50カ所を超えると聞いたことがある。

この状況下、神社の日常的な掃除はないし、日供はもちろんないし、参拝できる状態は維持されていないこともある。京都府には、鎮座地さえ分からない神社が存在するそうだ。つまり、参拝したことがある人はもう生きていないだろう。少なくとも、現地で奉仕したことがある神職はもういない。この状態は宗教的な立場から考えれば問題であるのは明らかだろう。宗教法人法の観点からも問題だそうだ。機能していない宗教法人は失格するからだ。

神社本庁の神社の管理についての書物を読めば、日供はもちろん、毎日の完璧な掃除も必要であると書いてある。

それは明らかに現実的ではないので、最低限を考えよう。

神社が神社として機能するために、何が必要なのだろう。私は、2点があると思う。

一つは、誰でも参拝できる状態だ。境内の位置を区別できる状態は重要だ。そして、通れる参道と礼拝する場所はないと無理だ。社殿があると良いが、厳密に言えば必要ではない。石碑で代用できる。神社は、神様に礼拝するための施設だから、その機能はないと神社だと言えない。

もう一つは、例大祭だ。例大祭に宮司が参列して、共選して、祝詞を奏上することだ。氏子も参列すると良い。例大祭は年に一回の一番重要な祭りだから、最低限に入る。

この二つの条件を維持するために、何が必要なのだろうか。

まず、宮司は必要だ。そして、宮司が少なくとも年に一回神社に言って、例大祭を執り行う。例大祭を午後にしたら、午前中境内の整理に努めることも可能だ。そして、参拝は可能な状態を維持するために、雑草の刈り取りは年に数回行わなければならない。建物や設備の点検も同じぐらいな頻度で行うと良いだろう。参道に畳石を敷けば、雑草の刈り取りは年に6回で済めるだろう。

前提として、神社に行って作業を行うことには、一日は必要であるとしよう。過疎地に鎮座すると仮定しているので、ちょっと遠いところから人が参ると思っても良いだろう。つまり、宮司が年に6回神社に行けば、最低限の機能を果たす。週末等を入れれば、一人は40カ所ぐらい維持できる。

日本には、神社本庁の管轄下にある神社は8万ある。神職は2万人だから、大雑把な数字として、維持には問題はない神社を2万とする。残りの6万の維持には、何が必要であるかを考えよう。宮司は1500人があれば、できる。それは現存の神職の7.5%に当たるので、多いです。そして、この制度で最低限にとどまるので、収入はない。この1500人は、神社本庁の収入で賄うことになる。

私の考えは、これは大変適切な用途であるということだが、他の用途もあるので、これは無理だろう。例大祭の斎行には宮司は必要不可欠だが、管理には有志でも良い。神社本庁や神社庁が経費を出したら、無料でする人はいるだろう。しかし、神社庁の指導や当該する神社の宮司の許可は必要だから、神社本庁が牽引役を担わないと無理だろう。

有志ですると考えれば、一人は年に12回を限界としよう。それは月に一回だ。一人ですれば、神社は二つだ。3万人が必要となる。しかし、現実的に考えれば、小規模な団体でするので、一人当たりは神社の半分になるだろう。12万人が必要となる。それは無理な数字ではないだろう。活動する神社は2万カ所あると仮定したので、6人ずつになる。

神社庁がこのような活動を管理して監督したら、そして積極的に参加する人を顕彰したら、ボランティアは集まるだろう。

実は、総代などで維持されている神社は多いそうだから、最低限を果たす神社は現状でも2万カ所を大幅に上回ると思う。だから、問題の規模は縮小する。

どう考えても、この問題は個別な神社は解決できない問題である。過疎化の影響で力がなくなるからだ。一方、神社本庁が動けば、解決できそうだ。もちろん、もう救えない神社も存在するが、多くの場合助けることはできるはずだ。教化活動としても有効であるはずだ。この問題に対する動きは、『神社新報』であまり見えないが、水面下で進んでいるかもしれない。このような活動は、神社本庁の役目だと思わざるを得ない。

活動家の役割、政治家の役割

活動家は、一つの問題に集中して、その問題の重要性を強調する。女性の権利にせよ、地球温暖化にせよ、日本での外国人の生活にせよ、そのように焦点を持つ。他の問題を無視する傾向がある。客観的に見れば、より重要な問題を無視することは多い。例えば、地球温暖化は川崎市での外国人の生活より遥かに深刻な問題だ。気候が変容して、食糧の生産量が激減する恐れもあるし、バングラデシュのような国で洪水で奥の人が死ぬ可能性もあるし、太平洋の島国が完全になくなる可能性も。川崎市に住んでいる外国人は、ちょっと不便なことがある。地球温暖化に集中するべきだろう。

私は、そう思えない。活動家の役割は、一つの問題をクローズアップして、その問題の重要性を強調することだ。他の問題を無視するべきだ。なぜなら、全ての問題を理解して、広報することは一人の人間には無理であるからだ。

そして、選ぶ問題は、自分に直接に関わる問題であるのは当然だ。最初から直感的な理解を持つし、関心も持つからだ。だから、女性の権利を掲げるのは主に女性だし、同性愛者の自由を訴えるのは主に同性愛者だし、外国人の問題を提言するのは外国人だ。活動家が一つの問題に集中するし、その上自分の利益と関わる問題に集中することは、批判するべきではない。問題の比較的な大きさをも誤算することも当たり前だ。活動家が夫々の問題を掲げて、意識させないといつまでも放置されてしまう。(もちろん、直接に利益はない活動家もいる。異性愛者が同性愛者の権利を訴えることも少なくない。傾向の話に過ぎない。)

他方、活動家であれば、別な問題と取組む活動家を認めるべきだ。つまり、自分の問題を放置して、別な問題に力を注ぐ人がいても、悪口するべきではない。他の活動家の強調を許しながら、自分の強調を続けるべきだ。

政治家の役割は、全ての活動家の強調を聞いて、意識して、政策を決めることだ。政治家も人間だから、自分で全ての問題を調べて、理解することは到底できない。だから、活動家の理解を借りて、社会問題を把握する。もちろん、活動家の評価をそのまま鵜呑みするとダメだ。活動家は、自分の問題を大変重要であると思わざるを得ない。政治家は、全ての問題を一緒に考えて、適切な対策を発想しなければならない。そうするために、優先順位も、妥協も重要だ。

だからこそ、活動家はいつも政治家に対して不満を発する。自分の問題を軽視するかのように見えるしかないからだ。理想は、活動家も政治家の立場が分かることだが、理想な世界ではない。理解する活動家もいるが、理解できない活動家は多いだろう。一方、活動家を充分活用しない政治家も少なくない。これは民主主義の利点の一つだろう。政治家も活動家も選挙の時期で対話するし、活動家は政治家になれる。ただし、政治家の役割は違うことは分かってほしいよね。

対立

この世で対立することは多い。中国と日本。アメリカとイラン。アメリカの中で、共和党と民主党。日本で、憲法保護派と憲法改正派。最近、心理学についてもう一度読んで、対立についてまた考えた。

対立が一旦発生したら、深まる傾向は強い。自分の仲間を防衛する本能があるし、敵討ちの精神も強い。そのような対立になって、交渉して妥協に至ることは極めて難しい。なぜなら、敵に譲歩することは、裏切りであるからだ。忠誠心を保つために、譲歩しない。しかし、そうしないと、相手が譲歩するはずはない。結局、妥協案に至ることはできない。

だからこそ、社会には裁判がある。民法の裁判所は、このように対立になった状態を解決するために存在すると言えよう。(刑法は別だ。)しかし、裁判になった問題はもう解決できない。個人レベルで明らかな例は、離婚だ。裁判所で定めた離婚はもう悲惨だ。

外交の場合はさらに酷い。裁判所に相当する存在は事実上ないので、対立になったら問題の解決が不可能になる。(戦争が外交問題を解決することはない。中国に、第二次世界大戦が日本の侵略の問題を解決したかどうか聞いてご覧。)

しかし、単純に「対立を避けよう!」と叫んでも、効果はない。効果的な解決策を提供しない限り、ただの理想話に過ぎない。対立になる前に問題を解決することはもちろんのことだが、対立はもう立っている場合は多い。

この問題について、今のところ名案は持っていない。

典子女王殿下の御婚約内定

昨日、典子女王殿下の御婚約内定は報道された。相手は、出雲大社の禰宜の千家国麿さんだそうだ。

出雲大社の社家は代々宮司を受け継ぐが、「出雲国造」と言われ、現在の宮司は第84代だ。千家家の家柄は、大和朝廷が確定する前まで遡る。起記神話で、祖先は天照大神の御子神で、アメノホヒ命で、皇族の祖先のアメノオシホミミ命の弟神である。歴史的な仮説は、出雲の国の大和朝廷の前の王族なのではないかと言われる。

実際のことを言えば、出雲国造の家は、皇室と同じぐらいの歴史を持ち、同じように古い伝統を今でも受け継がれている。ちょっと冗談にしたら、このご結婚で、意外と歴史や伝統がある家族に入るのは、典子女王殿下である。天皇陛下のいとこの宮家より伝統が遥かに細かいと言おう。

千家家は皇室と同じように天照大神の子孫であるとしても、出雲大社の御祭神は大国主神で、いわゆる国神の代表者である。一方、天照大神は天津神の代表者だ。神社の建築まで及ぶ。伊勢の神宮は神明造りの源とされているが、出雲大社は大社造りの起源であると言われる。出雲大社は、皇族と特に近い関係を持っていないが、伊勢の神宮に次いで日本の二番目のお社であると言われる。実は、明治時代に中央の神道施設に天照大神とともに大国主神を鎮座するかどうかという点で大きな論争が勃発して、結局詔勅で鎮圧されたが、その制度の早々な衰退の原因の一つとされている。

要するに、神道から言えば、出雲と伊勢が対になったことは多い。対立まで行く場合も少なくなかったが、現在はそうではないと言えるだろう。

結局、私が言える深い意味なことはないが、これほど日本の歴史には重要で、さらに神道に中枢的な存在が人間の関係で直接に結ばれるのは、どうしても意味のあることとして捉えざるを得ない。この歴史の重さの中に家族を構えようとする二人の人間はどうなっているのかな。同じことを考えたことはないはずはない。プレッシャーとして感じないように祈るしかない。むしろ、励みとして感じられると良い。

ちなみに、ここで私が時々悩むことが浮き彫りになる。伝統は重要だし、伝統を受け継ぐことは良いことだが、この伝統の中には人間がいる。その人の自由と人情を尊重しなければならない。今回の御婚約は、その結晶だろう。

二人の幸せを祈る、と言いたいのだが、余計なことかもしれない。ご結婚そのもので象徴的な意味があることで満足して、これから特別な行動を期待しない。そのようなことは、当事者に任せるべきだ。