神道と証拠

神道についての本を読めば、興味深い傾向に気づく。ほとんどの神道入門書は、神話、神道の歴史、神社の建築や境内の設備、祭りの形態について話して、そして神毎に神話での歴史と進行の経緯を紹介する。ご利益についての本はあるが、少数派であるのは事実だ。宗教から宗教らしい要素をすべて払拭したかのような状態だ。

原因を考えると、戦前の神社非宗教論が思い浮かぶ。政府は、神社は宗教施設ではないと主張した。それより、国会の宗祀と位置づけて、伝統などの重要性を唱えた。戦前の神社制度を引き継ぐ神社本庁でも、神社本庁も神社も宗教法人であるとしても、宗教性に対して慎重な姿勢をとることは多いようだ。

もう一つな重要なことは、国学者の立証主義だろう。明治時代以降の神道は、江戸時代の国学者から大きな影響を受けたので、その国学者の立証主義も重要になった。国学者が中世の神社縁起を退けた理由は、本当のことを語る証拠はないからだった。そして、偽書を見つけたら、すぐに無視する。だから、現在、伊勢神道の神道五部書はあまり知られていないし、中世の縁起絵巻は美術品として扱われる。そして、戦後の考古学等の進展とともに、『古事記』や『日本書紀』の神話も事実ではないことが明らかになったし、神武天皇さえ実存しなかったことは認めざるを得なくなった。だから、提唱できるのは、歴史、美術、芸術、祭り、神話などの文化研究。だからこそ神社本庁が全面的に擁立する神社検定の正式名称は神道文化検定である。

神道はこれだけであっても、充分価値がある。能楽や歌舞伎のように日本の伝統的な芸能の一つだと言える。茶道のようなしきたりもある。代々同じ家族で伝授された秘儀もある。日本の文化の伝統流の一つとして捉えたら、能楽に劣らない。

そして、儀礼や儀式には意味がある。私はほぼ毎日近所の氏神様にお礼参りして、その日や前日のありがたいことを神前で奉告する。神様が存在しないので聞かないとしても、この習慣には意味がある。まず、毎日の外でのちょっとした運動になる。インドア派の私にとって、それは些細なことではない。その上、人生の中の良いことを一々意識して、掲げることで、精神的に強くなるし、幸せを構築する。通過儀礼で、人生の重要な節目を家族で祝うことになって、絆を強めて、良い思い出を造り出す。人生は思いでからなるものだから、何よりも重要だと言えよう。

ただし、神社人と話したら、これだけではない。神様の存在も信じる場合は多い。ご祈祷には直接的な効果があることも信じるようだ。詐欺師ではないのは当然なことだが、日本の伝統文化を維持して、人に提供することは全てではないとも思うようだ。

確かにその通りだ。神様が鎮座するからこそ神社が存在する。神様は鎮座しないと、もう神社ではない。ただの建物だ。伊勢の神宮の式年遷宮で明白な例がある。遷御の議の前に、新宮に入って白石を置くことはできる。同じように、遷御の議の後で旧宮に入って見物できる。しかし、大神様が鎮座する正宮には絶対に入れない。

ここで、私は躓く。鎮座するのは、一体なんだろう。まず言えるのは、記紀神話は本当のことではないのである。8世紀初頭で人がこのようなことを見通したわけはないし、明らかに間違っているところもあるし、天武天皇が自分の皇位の奪取を正当化するために捏造したり改竄したりさせた可能性も充分ある。だから、何かが鎮座するとしても、なんであるかは全く不明だ。

「言挙げぬ」神道であれば、不明のままでも良いだろうが、私は落ち着いて納得できない。

仮に、良く分からない鎮座する存在は本当にいるとしよう。この可能性は除外しない。しかし、本質が分からない存在がいれば、祭祀で嫌がらせる恐れがある。反応は微妙で見極めにくかったら、反発でも数百年見逃す恐れもある。それはなくても、不要な部分がある可能性、逆効果がある部分の存在する可能性、取り入れたら素晴らしくなることが見つけられる可能性もある。医学を例としたら、良く分かる。500年前の医学は完全にダメだったとは言えない。医者の処方のほとんどは、健康に貢献した。しかし、伝染病にあまり対応できなかったし、ヨーロッパや中東で出血させる逆効果がある手術が盛んになった。神道の祭祀の原理が分からない限り、中世の医学のような状況は希望の頂点だろう。

その上、神話や中世の伝承を見れば、神がかりなどの占いがあったが、それは本当のことだったろう。現在の神道ではもう神がかりの巫女が払拭されている。しかし、本当のことであれば、今でも活かすべきなのではないか。証拠はないので信じないのは事実だが、鎮座する存在の証拠も同じだ。

だから、私は鎮座する存在を理解したい。何もなかったら、それは確実に知りたい。そうであれば、神道はただ単に日本の文化の重要で中核的な流れに過ぎないが、それでも世界に誇るべき存在だ。(そして、明らかに宗教ではない。能楽や茶道と同じ。)一方、何かご祈祷に応じる存在がいれば、その存在を理解して、適切な祭祀を創造して、今よりはっきりした結果は出したい。今まで何も出されていないので、何もないと言うのは簡単だが、医学が大きな成果を出さずに2000年以上続いた。

理解がないことを素直に認めて、理解を得るために努力するのは必要だ。そして、古典で探すのは無駄だ。古典からヒントを得るのは良いが、先人が分かったら、そのことは明らかであるはずだ。

検討方法を検討することは、哲学の役割の一つで、大変な問題だが、やはり挑戦してみたいと思う。


投稿日

カテゴリー:

投稿者:

タグ: