実験祈禱

さて、神を理解するために、どうすれば良いのだろう。

古典を分析するのは良い方法ではない。なぜなら、古典を作成した人は神を理解したのを信じる理由はないからだ。吉田神道の基盤となった書籍は、吉田兼倶によって捏造されたのは通説になっているので、信じる人はいない。しかし、仮に聖徳太子によって著された本が現存したとしても、7世紀初頭で神をはっきり理解した人が生きていたと思う根拠はない。先人の話を信じる前に、先人はどこから知識を得たかを考えなければならない。取得方法は内容であったら、知らなかったと判断すれば良い。この方針は、学問の大半で前進を大きく促した。哲学でも、プラトンなどの有名な哲学者がなぜそう信じたかを検討するのは、学問の重要な部分だ。

古典を使わなければ、現在の人の経験に基づくしかない。科学でこれは「実験」と言われるが、歴史等での立証も同じ原理だ。

神の本質を理解するために、まずは何ができるかを把握しなければならない。本質は隠れているので、その表現になる出来事を理論の基礎とするべきだ。これも、科学と共通するが、科学の基本は内容ではなく、事実を検討する方法である。神の場合、それはどうなるだろう。

神道の儀式で、神社の例祭では、神の反応は定かではない。どうするかは分からないので、何を測ると良いかは分からない。実験には難しい。一方、ご祈祷は比較的に簡単だ。何かを依頼するので、期待された反応は希望を叶えてもらうことだ。だから、ご祈祷が叶うかどうかを調べれば良いのではないか。

実は、キリスト教の祈りに対してこのような実験が行われたが、結果は祈りには効果はないということだった。神道にとっては、それは問題ではない。キリスト教の祈りと神道のご祈祷の概念は大きく異なるので、キリスト教の祈りには力はなくても、神道のご祈祷にあるかもしれない。

では、どうやって実験するのだろうか。一番簡単なのは、合格祈願だ。合格するかどうかははっきりした結果なので、確認できる。病気平癒では、回復には曖昧な側面があるし、同じ病気を患う人を集めることも大変だから、難しい。一方、合格祈願の比較するために、ある大学の倍率でも良い。つまり、合格祈願を執り行ってもらった人の合格率は、平均の合格率を上回ったら、ご祈祷の効果があると言えるだろう。

実は、それは早い。例えば、ご祈祷を捧げる人は、そうしない人より意欲は強いので、意欲の影響で勉強の量が多くなる。そして、勉強の量は合格率の本当の原因になる。同じように、ご祈祷を捧げた人の合格率は低いとしたら、それは自信を持たない人がご祈祷をするからであると言えるだろう。つまり、実力は低い方の人がご祈祷を捧げる。それで、実力が低い人を比べたら、ご祈祷から結果が出る可能性もある。

だから、一つの実験で事実を解明するわけではない。ただし、最初の実験の結果を踏まえて、次の段階でどう探るべきかを決める。

もちろん、実験すれば、倫理を考えなければならない。ご祈祷を捧げた人の結果を把握するための工夫は必要だし、その人の同意を得なければならない。最初の実験で、ご祈祷を自発的に願う人が執り行ってもらうし、執り行ってもらわない人は欲しくない人に限るので、倫理的な問題はない。実験はなくても、ご祈祷を執り行ってもらうからだ。

それで人間側には問題はない。しかし、神側はどうか。

神が意識して存在する可能性に配慮しているので、神の感情にも配慮しなければならない。神の許可も得なければならない。

それは簡単である。祝詞で実験の計画を説明して、許可を求める。そして、籤を二つ用意して、「許可」と「不許可」にして、無作為で選ぶ。「許可」が出れば、しても良い。

この方法で、神が伝統的なやり取りはできることを前提としている。検討が続けば、この方法で神意が把握できないことが明らかになる可能性があるが、最初段階でこれは良い。知識の乏しい現状で、これより良い方法はない。

(ところで、複数の神社で実験を行うべきだが、許可率が50%と有意に異なれば、それも興味深い証拠になる。50%と異ならないと、神意を探る方法には問題があるのが示唆されるが、その問題は神は意思を持つ存在ではないとは限らない。)

問題は、神職の反応だろう。「神様の霊験を測りたいが、よろしい?」と訊いたら、断れる予想を持つ。合格祈願を経済的な基盤とする神社は実験に一番相応しい。なぜなら、数は多いので、統計的な結果から事実を見いだすのは比較的に簡単だ。統計力がある実験は行える。しかし、そのような神社が躊躇するのはごく自然だ。結果は「効果はない」ということになったら、破綻するからだ。如何に「実験の結果の解釈を慎重に行うべき」と主張しても、マスコミで「〇〇天神のご祈祷は無効だ!」と騒ぐに違いない。もちろん、効果がある自信があれば問題としないが、その自信はない神職は多いのではないか。

そして、神の力を究明することを不敬として見なすこともあるだろう。神職の資格を取得するために試験をある限り合理的ではないが、自然な態度だ。だから、他の検討方法も考えたいのだ。


投稿日

カテゴリー:

投稿者:

タグ: