御神籤の実験

神の本質を探る実験について、更なる提案をあるので、今日の投稿で論じたいと思う。実験祈禱で、祈禱には効果があるかどうかを探る。しかし、よく考えれば、この検討には要素が重なる。先ず、神には祝詞が分からなければ、返事はもちろん来ない。そして、神はその依頼に応じたくなければ、結果はない。次は、神には叶える力はなければ、結果はない。もちろん、神が存在しないと、返事はないが、他の説明は大変多いので、そのような実験で本質を改名できるとは思えない。

つまり、より簡潔な実験から始まるべきだと思う。

実験の前提は、神が存在して、そして神道の祭祀の形は根本的に間違っていないことだ。神道を研究しようとしても、尊重するべきだ。そして、神の存在を前提として、神を尊敬するべきだ。実験は必要だが、神は単なる物として扱うわけにはいかない。

だから、神意を把握する実験は良いのではないかと思う。御神籤はその伝統的な形だ。もちろん、これから運がどうなるかという神籤にしない。神が将来を予見できるかどうかはまた別の問題であるからだ。神は意識があり、御神籤で質問に答えられる存在であれば、答えが出てくる質問は良い。

御神籤で、翌日の神饌を尋ねたら良いと思う。例えば、六つの選択肢を用意する。鯛、アワビ、ネギ、花、卵、チョコレート。それは例だけだ。そして、神前で祝詞で質問を説明してから、見ずに御神籤をとる。その御神籤の通りに翌日の神饌を用意する。そして、この実験を複数の神社で行う。

神道の大前提は、神は神饌が欲しいことだ。そして、神には好き嫌いがあるようだ。神社によって神饌が異なる。だから、祝詞が分かれば、そして御神籤の結果に影響を及ぼせれば、この形で好みの神饌を指摘するはずだ。

一日の結果で、何も分からない。事前に神の好みが分からないので、「アワビ」は神の好みであるか、ただの偶然であるか、言えない。しかし、長く続ければ、頻度を分析したら何かが言えるだろう。

ただの偶然であれば、六つの選択肢は全て六分の一になるはずだ。しかし、神には好みがあり、御神籤で神意を測れば、その頻度が変わる。神の好みの神饌の頻度が高くなるはずだ。そして、神によって好みが異なるとすれば、神社によって頻度が違う。

結果の統計的な分析に気をつけなければならないが、糸口が見つかる可能性がある。頻度の違いが本当にあれば、同じ方法で神の神意を尋ねることはできるので、実験を深めることもできる。頻度差はないと、御神籤の方法を変えることもできる。複数の方法が失敗に終わったら、少なくとも神の神意を把握する方法はないと思って行くだろう。

この実験には複数の利点がある。先ずは、単純だ。神意を把握する方法しか検討しない。そして、神明奉仕の一部である。日供などの神饌を供える行動は、奉仕の基本である。その上、神に神饌を尋ねることは悪いはずはない。つまり、神道が一概に正しいとしても、問題はない。同じように、完全に間違っているとしても、問題が発生しない。ただ毎日を神饌を供える。もう一つの利点は、一人には大きな努力は不要であることだ。この実験で役に立つ成果が出るかどうかは本当に不明である。そのような状態で人生を注ぐのは良くない。しかし、この実験の為に、神職であればいつもの生活に5分ぐらい加えることに過ぎない。毎日の日供には祝詞と御神籤を追加することだけであるからだ。

もちろん、この実験で神の本質が明確になるわけはない。第一歩に過ぎない。結果は偶然と異ならないと、神道は能楽のような文化である可能性が強くなる。一方、何かが現れると、興味深い研究の糸口になる。


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