この間、神の本質を探る実験を提案した。しかし、この実験を実現しても、論文雑誌に載ってもらえないのは確実だ。神などはないのは、科学研究の前提であると言える。厳密に言えば、「神はない」と言うのはちょっと過言であるが、「神が実験の結果に干与しない」のは前提だ。自然主義という立場で、神などの精霊てきな存在は認められていない。
これはいつまでも続く態度であるとは限らない。証拠が強くなったら、精霊を科学の範囲に入れ込む。量子力学はその例の一つだ。量子力学で認められている現象は、19世紀に科学の範囲外だとされた。精霊も同じ道を歩む可能性がある。条件は、精霊が存在すること、そして予想できる方法で人間の世界に影響を及ぼすこと。ただし、量子力学と同じように、精霊を取り入れることで科学の基本を大きく修正する。そうするために、非常に説得力のある結果は必要不可欠だ。
私が提案した御神籤の実験などは、それほど説得力を持つことはできない。捏造や改竄の可能性を仮に完璧に払拭されたとしても、他の説明や解釈が優先される。科学界を説得させるために、神の本質を把握して、はっきりした結果を依頼に応じる必ず出してくれる手法は必要だ。この研究の最終目的はそのようなことであるとは言え、私が生きている間にそれに辿り着くとは限らない。むしろ、その可能性は低いと言えよう。
これを認めたら、実験の対象は誰だろう。
先ず、私。神道に深い関心を持っているが、全く理解しない部分に対して抵抗感を持っている。神が本当に鎮座するかどうかはその中心的な問題だ。神はいなければ、文化の一流だから、祭りを勝手に発想したり創造したりすても構わない。現代社会に合わせて、悪習を払拭すると良い。もちろん、そのような活動は他の人の実践に対して強制するわけにはいかないし、神道の伝統の勉強と理解にも基づかなければならないが、原則としてそのような扱いは良い。
一方、神が神社で鎮座すれば、そう勝手にできるわけはない。神道の祭祀の目的は神を和ませることとか、祟りを解消することなどと言えば、一括にすれば神に奉仕することだ。神明奉仕という。だから、神の神意に合わせて対応するべきだろう。しかし、そうするために神の神意を把握しなければならない。
だから、このような実験で先ず神社に対する態度で、何が適切であるかは理解したい。その結果は「神が本当に鎮座するのではないか」になれば、神意を把握するように勤めるのは当然だ。神は必ずしも従うべき存在であるとは限らないが、相手として尊敬しなければならないし、祭祀を勝手に修正することもできない。
そして、神道界の人も対象となる。神明奉仕の有様に参考になる結果があると思える。もちろん、こちらの神社で出てきた結果は他の神社にも該当するとは決まっていないので、参考になるとしか言えないだろう。
それでも、主な対象は私だ。私の理解のためにやりたいのだ。だから、意図的な捏造を心配する必要はない。ただ自分を騙すことが起こらないように気をつければ良い。このようなことを信じない人を説得するための行動ではない。
まだまだ実現できないので、もう少し考えたいと思う。実験を乱れに始めると、時間の無駄にすぎない。結果を予想して、結果毎にどういう解釈が適切かを事前に考えなければならないし、手法を慎重に構える。だから、この課題にまた戻る。