宗教の自由

宗教の自由は重要であるとはよく言われる。しかし、私は最近法律で保障するべきではないように思ってきた。

理由は、「宗教」の定義の問題に関わる。

「宗教の自由」を考えれば、二つの可能性がある。一つは、宗教を理由に、一般の人に与えられていない自由を受けることだ。アメリカで、この解釈が使われているようだ。例えば、宗教で徴兵制の免除はもらえた。イスラエルでは、つい最近まで同じだったが、裁判でこの免除を取り消したそうだ。もう一つは、宗教を理由に特別な自由は得られない状況だ。

後者であれば、明らかに法律で「宗教の自由」を取り上げられる必要はない。宗教の自由は住民の自由と全く同じであるからだ。つまり、住民に一般的な自由を保障することで、宗教が自ずと自由になる状況がある。私は、この状況を望ましく思う。前者の問題は、上述した通り、「宗教」の定義だ。

まず、「宗教」を定義せず、「宗教」に従うための自由を制限なく与える状態を考えよう。

「私の宗教によると、私が欲しいものを自由にとっても良い。お金を払う必要なんかない。だから、窃盗犯の法律は私に適応しない。そう適応すれば、私の宗教の自由を制限する。」

「私の宗教は、平和主義だから、武力に貢献することは許されない。税金の一部は、国防に使われるので、税金を納めることは、私の宗教に違反する。従って、徴税することは、宗教の自由に違反する。」

同じように例は自由に作成できる。無限だ。だから、「本当の宗教」に限る必要がある。

では、本当の宗教というのは、何だろう?

「私の宗教で、太陽が死なないように拉致された人を殺す必要があるので、拉致も殺人も許してもらう。」

これは本当の宗教だそうだ。アズテックの宗教の一部の概略だ。(この描写は、キリスト教の宣教師の書物からきたので、歴史的に正しいかどうかは定かではない。それでも、現在の人が恣意的に作り上げた宗教ではない。)だから、「本当の宗教」になるために、「歴史的に多くの人を信者としてあった」ことは十分条件ではない。

日本の歴史にも良い例がある。戦前、「神道無宗教論」は政府の持論だった。法律にも反映された。つまり、神道は宗教ではないので、強制的に神道の儀式に参加させても、宗教の自由に違反しない。そう思わないキリスト教徒は少なくなく、退職させられたりしたことはその時代の弾圧的な行為の例として掲げられている。

問題を別な角度から見れば、「宗教」の定義には問題はなくても、与えるわけにはいかない自由もある。その一例は殺人権だ。しかし、自由を重視すれば、宗教を理由として与えても良い自由は、無条件で住民に与えるべきだ。宗教の自由を制限するため充分な理由はなかったら、宗教以外の自由を制限するため充分な理由もないと思う。

そうすれば、認められる「宗教」であっても、一般人の自由を超える自由は与えてはいけない。だから、結果として、ある行動は「宗教」であるかどうかは無関係になる。宗教ではなくても、最大限な自由があるし、宗教であっても、自由が増さない。そうなら、法律で「宗教」を定義したり、指摘したりする必要がなくなる。

ところで、「宗教の自由」が最初に提唱された時期、その意味はカトリックかプロテスタントかは自由になることだった。イスラム教などはその「宗教」の範囲に入らなかった。このような自由は、自由は一般的に厳しき絞られている状況には前への重要な一歩であるが、現在の自由が拡大した社会では、もう相応しくないだろう。

つまり、法律で住民の皆に最大限の自由を保障するべきだ。最大限になるので、特別に宗教に更なる自由を保障することは必要ではないし、さらに許せない。


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