尊敬は重要な態度だと思う。原理は二つある。
一つは、誰にも表すべき態度であること。尊敬というのは、相手を自分より目上であるという態度ではないと私は思う。相手はいかに馬鹿者で卑しい者であっても、それでも尊敬すべき。子供でも、悪質な人でも、同じであると思う。(もちろん、私はこの理想を完璧に実現するわけはないが、理想として擁護する。)
相手は馬鹿者として評価すると、尊敬は一体何だろうと反発する人もいるのではないか。扱いにある。「馬鹿者」という判断は、相手のご意見は間違っているし、そのご意見には充分な理由はおろか、一見で理由に見える根拠さえ欠けているとの判断としよう。その場合、相手のご意見を慎重に受け入れることはもちろんない。しかし、気軽に退けて、相手をすぐに無視することは不要だ。尊敬は、相手の間違った意見に従わない理由をちゃんと説明する行動なのではないか。
説明すると、相手をちゃんとした相手として扱っている。間違いはしているが、それでも理由の提供を受ける資格は持っている。
普通の人であれば、例えば掃除の担当者やコンビニの店員の場合、笑顔で対面して、挨拶して、そして相手のミスを許したり、問題の発生にいらだちしないこと。相手にも人間の事情があって、好ましく態度をとっても、自分への特別な睨みではなく、相手の辛い状況から発生したと思うこと。相手の期待や予想になるべく適うこと。ある程度甘えさせることになるが、和を目指す態度だと言えよう。
特別な才能や知識を持つ人、そして経験が豊富な人に対して、尊敬が更に別な形で現れる。相手のご意見を自分の意見より重く受け止めることもあるし、相手のご指導に従うこともある。素直に従うほどではなくても、相手のご意見を重視して、配慮する。そして、初めて人と話したら、相手のご意見はこのように配慮すべきご意見である可能性を念頭において聞くべきだ。初めてではなくても、課題が初めて浮上した場合も同じだ。政治についた馬鹿のことばかりを言う人は、音楽について智慧が溢れる場合もある。類似する例も少なくない。
要は、事前に排除しない程度で、事情がどうなっても好意に解釈して人間らしく対応することだ。
もう一つの原理は、尊敬は求めるべきではない。まず自分に対する尊敬を要求しないのはもちろんのことで、期待もするべきではない。というより、いつも相手は自分を尊敬しようとしていることを前提として思うべき。だから、相手の行動を糾すこともないし、相手の行動にいらだちすることもない。
自分に対する尊敬だけではなく、第三者に対する尊敬もそうだ。促すのは良いが、要求するのは倫理的に間違いであると私は思う。
もちろん、明らかに尊敬が欠けている態度にあったら、相手に対する評価が劣化する。相手は馬鹿者であると判断することと同じような現象だ。そして、相手が尊敬を求めれば、同じように評価が下落する。それでも尊敬するのは第一の原理なので、要求に素直に応じるのは正しい反応だ。このようなミスも、相手の辛い事情から発生したのではないかと思ったら良い。