集団的自衛権を巡る問題で、憲法解釈の変更が問題視される。解釈を閣議決定で変更するではなく、憲法改正を行うべきだと主張する人は少なくない。この立場は分かる。憲法は、安易に変えられない法律であるべきなので、閣議決定で事実上改正すれば、憲法であることには意味はない。
一方、憲法を解釈することは不可避だ。例えば、日本国憲法で職業の自由は保障されている。それにもかかわらず、売春は違法で、12歳の子供の職業は厳しく制限されている。紅白歌合戦に登場することになっても、クライマックスは深夜だから参加できない。これは違憲だろう。もちろん、職業の自由と他の自由を保護するためにこの禁止令は必要であると言われる。私も同じようなことを強調している。自由を保護するために、行動を制限しなければならない。そうしないと、力のある人は無力の人の自由を奪うからだ。しかし、詳しく何を禁じるべきかは、憲法の解釈だ。
そして、言論の自由や表現の自由を考えよう。男根の写真を出版することは禁じられているそうだが、それは表現の自由の侵害ではないと思われている。これも、表現の自由の解釈だ。この例で自由は自由だと強調して、現行の法律の違憲状況を主張する人はいるだろうが、他の例もある。例えば、「私の表現のやり方は、周りの人を殴ることだ」と人が主張しても、それは表現の自由で保障されているので殴ることを許さなければならないと言う人はいないだろう。しかし、表現の自由は言葉だけではなく、絵も音楽も入っているし、ダンスも入る。
自衛権はまた顕著な例だ。憲法はどれほど禁じるかは、解釈の問題だ。
だから、解釈は必要だ。それに、解釈の変更で憲法が事実上改正される。これは不可避だ。もちろん、「天皇を批判することは、本当の表現ではないので、制限しても表現の自由を侵さない」と主張しても、信じる人はあまりいないはずだ。尊皇攘夷の思想、というより現代なら愛国尊皇と言うと思うが、を保持する人でも、そう思わない人は天皇を揶揄すれば何かを表現すると認めるのではないだろうか。つまり、憲法に書いてあることには意味がある。卓上の理論では解釈によって自由に変更できるとはいえ、実世界では限度がある。それでも、グレーゾーンは多いのも事実だ。
課題は、誰がこの解釈を行うことだ。
私の違憲は次の通りだ。憲法の役割は、政府の行動を制限することだ。だから、解釈は政府によって定めてはいけない。政府の制限する機能が大きく弱まるからだ。政府ではないと、誰?
もちろん、最高裁判所だ。憲法の解釈の責任を最高裁判所に任せるべきだ。裁判官は法律の解釈の専門家であるし、これは最高裁判所の本来の機能だ。現在の制度で、訴訟はないと最高裁判所は何も決めないようだが、本当にそうであれば、閣議決定で憲法の解釈についての質問を最高裁判所に提出できるような法制は良いと思う。
この制度で、政府を縛るのは最高裁判所の憲法の解釈だ。しかし、それは事実だ。選挙制は違憲であるかどうかは、最高裁判所の解釈によって定めるように、所詮全ての問題はそのように解決される。政府に直接に確認する方法を与えることで、今のような騒ぎをある程度避けられるのではないかと思う。