愚かな質問

先日、このブログで「痛みはなぜ嫌なのか」という質問について論じた。表面で、これは愚かな質問だ。痛みだ。嫌であるのは当然だ。定義から分かることだ。痛みだよ。

しかし、歴史を見れば、このような馬鹿な質問は大変重要である。例えば、「物はなぜ落ちるのか」。これに答えるために、ニュートンが重力の理論を発想した。「風はなぜ吹くのか」これで、天候の科学が発展した。明らかなことを理解しようとする行動は、人類の知恵の膨らみの原動力だ。

これは、科学の歴史を勉強した人の通説だ。まず、質問を見つけろ。質問は良ければ、研究は有意義だ。質問はダメであれば、研究はいかに優れても成果はない。答えを見つけても、誰も関心してくれない。

確かに、愚かな質問には意味が秘めることに気づくことは安易ではないし、重要だ。それでも、反面がある。

アリストテレスを例として挙げよう。倫理学などを除けば、アリストテレスが主張した内容の全ては間違いだった。それは、アリストテレスは正真正銘の天才だったことにも拘らず、正しい答えに至らなかった。もちろん、古代ギリシアで重力の問題など、天文学の問題とかと取り組むことは容易ではなかった。科学の基礎さえなかった。というより、基礎を敷いたのはアリストテレスだった。それでも、事実はアリストテレスの結論は一貫として間違っていた。現代は、科学の歴史を研究する人しか読まない。

アリストテレスより酷い状態に陥っている人もいた。アリストテレスの前のいわゆる「プレソクラテックス」の哲学者は、同じように科学の基礎となる質問と取り組んだが、真実からほど遠く、今では専門家ではない限り名前さえ知らない。中世や近世には、同じような人物が見える。

この事実を考えれば、さらに歴史の記録から漏れた人物もいたはずだ。重要な問題と一人で取り組んだが、世界には影響は全くなかった。

「痛みはなぜいやなのか」のような質問と取り組もうとすれば、最初から三つの覚悟は必要。

其の一:実は、質問には特別な意義はない可能性。

其の二:取り組んでも、正しい答えに至らない可能性。

其の三:世界には影響は全くない可能性。

この三つの可能性はかなり高い。だから、このような質問に没頭して、命を尽くすべきではないと思う。そのような行動は、稔りが確実である行動に相応しい態度だ。このような見通しがつかない問題は、暇がある場合取り組んで、そして複数の問題と取り組んで、前への道を探るべきだと思う。

少なくとも、私はそのような方針で前進したいのである。


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