アイデンティティの自由

このブログを良く読めば、私のアイデンティティに対する疑問が自由と関わることでびっくりしないだろう。びっくりさせられなくても、重要な問題だと思う。

この場合、簡単に想像できるかと思う。「黒人」というアイデンティティを例として考えよう。

私は黒人になれない。一方、黒人として産まれた人は、黒人を抜け出すことはできない。つまり、このようなアイデンティティは重要であれば、人生には変えられない重要な要素がある。これは事実上の自由の制限だ。

このような制限があるのは人生の付き物だが、前に述べたように、社会の役目はこのような制限を最低限に抑えることだ。社会が生まれつきの要素に重要な意味を付け加えたら、社会の目的に大きく逆らっている。むしろ、生まれつきの要素の意義を縮小するのは適切な行動だ。

理由の基本はもう述べた。今日の投稿が短くなるだろう。人種や性別を重要なアイデンティティにするべきではないので、既存不正が是正されたら、このようなアイデンティティを軽視するべきだ。

ちょっと追伸ある。

まず、医学が進めば、将来には性別や人種を変えられるようになるだろう。その場合、女性になりたかったら、女性になれる。今でも、手術を受けたら、ある程度性別を変えることはできるが、まだ限度がある。人種を変えることはまだ不可だが、それも技術はまだ未熟であるからだろう。このように医学が進むと、自由が増す。

しかし、今の性別変更した人に対して、フェミニストの一部が批判する。男性から女性に本当になれないと言う。つまり、自由をさらに制限する。その動機は、女性であることは不変なアイデンティティとして捉え、哲学を立てているからだ。人種の場合でも、英語で「race traitor」という概念がある。つまり、自分の人種を裏切ることだ。人種を変えようとすることは、その典型例である。できない現在でも、行動などを別な人種の行動を受け入れることを批判する。

このような反発は、このようなアイデンティティを重視する状況の自然な結果だと思う。対策として、性別などを選べるアイデンティティにしたら良い。つまり、体は女性の体であっても、女性としてのアイデンティティを重視しなくても良い状況は好ましいと思う。昨日述べた通り、今現在そうではないが、目的としては良い。

このような態度を目指すもう一つの理由があるが、それは明日論じたいと思う。


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