もう一つの重要な問題は、曖昧なアイデンティティの存在だ。アイデンティティが社会的に重要な役割を占めたら、この存在が社会問題になる。しかし、問題になる理由は全くない。アイデンティティを重要ではなくしたら、問題が自然に解消する。
具体例で説明する。
60年前に、アメリカ南部で白人であるか、黒人であるかは社会的に極めて重要なことだった。白人に限るレストランや温水プールは少なくなかったし、会員制の施設も黒人を排除した。もちろん、問題は存在しない場合は充分あった。私が行ったら、間違いなく白人であるし、思い切りの黒人もいる。しかし、曖昧な人もいる。
すぐに思い浮かぶ例は、ハーフだろう。親の一人は白人で、もう一人は黒人で、子供はどちらかは簡単に言えない。この問題を回避するために、アメリカ南部では白人と黒人の間の結婚は違法にされた。それは、明らかに不要な問題だ。自由の不合理な制限だが、人種を基礎的なアイデンティティにしない限り、まったく問題にならない。その上、勝手に「一部だけで黒人であれば、黒人だ」と言われる。
実は、オバマ大統領は現在の例になる。オバマ氏はハーフだ。父親は黒人で、母親は白人だった。それでも、アメリカのメディアや社会によると、はっきり黒人であると言う。外見だけからも分かるが、社会でその曖昧な人種を認めるのは難しい。人種はそれほど重要であるから。
幸い、日本でそれほどの問題ではない。ハーフという範疇は広く認められているし、「白人」や「黒人」は一応肌色に基づいたてきとうな形容詞になっている。
もう一つの例は性別だ。これはさらに基本的だ。温泉はもちろん、公衆トイレは男性用と女性用で、温水プールの更衣室もそうだ。これには問題はないと思われるだろう。人間であれば、男性か女性かは明らかなのではないか。実は、そうではない。先ず、生物学的に曖昧な人は存在する。男性の性器も女性の性器も持つ人は稀であるが、存在する。それほどではなくても、自分の性別が体の形に合わないと感じる人も存在する。男性の体を持つ物の、女性であると感じる人は、現在の社会で生きるのは厳しいそうだ。
しかし、これも不要な問題だ。性別を自分の心理に基づいて選んでも良い社会だったら、スムーズに生きる。もちろん、性別を数回変える人も存在してくるだろうが、アイデンティティはそれほど重要でなければ、それも問題にならない。
抽象的に言えば、あるアイデンティティが社会的には重要な位置を占めたら、だれでもそのアイデンティティについて決めなければならない。しかし、その決断は難しい人もいるので、アイデンティティを重要とすれば、不要な苦しみを導入する。だから、アイデンティティを社会的に重要ではないようにすると良いと私は思う。