感謝の心を重視するのは世界共通の心理だが、日本では特に強調されているだろう。食べる前の「いただきます」はまだ恒例だし。国々の比較はともかく、感謝の気持ちを軽視する人はいないだろう。私も重視する。ほぼ毎日、神前でその日の感謝することを申し上げる。
しかし、気づいたことがある。感謝することは、「一日分の仕事ができた」とか「真由喜が喜んでお稽古してくれた」などのことだ。些細なことだが、些細なことについて感謝するのは大事だ。些細であることは特に気づいた点ではない。気づいたのは、「食べ物が足りた」とか、「警察に冤罪されなかった」などではない。
もちろん、食べ物は本当に足りる。そして、冤罪されていないのも言うまでもない。それに、確かにありがたいことだ。餓死にかけたら、それは良くないし、刑務所などにも入りたくない。では、なぜ感謝することとして思い浮かばないだろう。
それは、もちろん、日常的で標準である状態であるからだ。人と話してから、「私の顔を殴らなくて、ありがとうございます」とは普段言わないよね。だって、殴らないのは当たり前だし、常識だ。つまり、当たり前なことに対して、感謝しない。それは人間の心理だろう。
私は、それで良いと言いたい。当たり前のことは、意識しない。気づかない。だから、感謝するように思わない。たまに「この社会で外出しても殺されないし、食べ物も豊富だし、医療もあるし」と思って、感謝を改めて感じるのは良かろうか、日常的な状態として維持できないと思う。そして、無理に日常的な状態にさせようとするのも良くない。そのような日常的なことには意識しなくても良いからこそ、より意味がある活動に参加できるからだ。
そして、社会を改善しようとする人の立場から考えれば、ちょっと意外なことになる。つまり、社会を改善すれば、だれも感謝を感じない状態を目指す。つまり、改善された状態を当たり前な状態にさせて、普段は誰も考えないことになって、誰も感謝しない。つまり、努力が一般の意識から消えることだ。その状態にならない限り、社会の改善はまだ不完全だ。
確かに、これは「匿名で社会に利益を与える」ことではない。改善する当時で感謝する人はいると思えるし、歴史を勉強する将来の人にも評価してもらえる。それでも、できれば自分が生きている内に社会に意識から姿が消えるようにできれば、それこそは成功である。そうすれば、感謝のことの対象は、まだまだ問題であることがうまく行く場合になる。