もう十年以上前の話だが、日本語学校で好きな言葉を日本語で書いて、クラスに紹介するレッスンがあった。私は、この「何も明らかではない」という言葉を選んだ。
イギリスから日本に来たら、これを実感した。簡単に説明できた例は温泉だった。「どうすればいいか分からない。だって、イギリスの第一の常識は、裸にならないことだ。」それに、最初のころお祝儀袋をカードのようなものだと思い込んでしまったし、神社の作法も全く分からなかった。お箸ぐらい使えたが(それは本当に難しくないよ。外国人には「お箸は上手ですね」と言わないでください。「日本語は上手ですね」は大丈夫だけど。日本語を取得するためにかなり苦労したからだ。)レストランの支払い方は謎だった。(イギリスでテーブルを立つ前に必ず支払う。そうしないと食い逃げの疑いで拘束されるだろう。)
国の間の文化にはとどまらない。地球が太陽を回るのは現在の常識だが、古代ローマでは太陽が地球を回ると確信した。月の反対側は、人間がいつまでも直接に分からない例として挙げられた。先日の天皇と太陽の比喩も同じような感覚だった。
教えてもらう前に、何も明らかではない。子供がとんでもないことをするが、子供だから許される。しかし、文化を移動すれば、大人もとんでもないことをする。理由は同じ。まだ教えてもらっていないからだ。明らかだと思うことは、幼い頃に学んだことの場合は多い。土は食べられないことは、赤ちゃんの多くに教えなければならない。
より些細なことについてもある。「この場所に入っても良いだろう」と考えたら、どう決めるか?常識だと思うかもしれないが、そうではない。神社を例として考えよう。解放された境内に入るのは自由。しかし、解放された拝殿に勝手に入るのはダメだ。作法が分からない人は、どうやってそういうことが分かるか。教えてもらわないといけない。大人になったら、看板を探したり、他人の行動を真似することは多い。例えば、伊勢の神宮で人が滝祭神に手をかざす人は多いそうだが、それは神宮の神職によって失礼だそうだ。しかし、パワースポットを訪れる人はそのように霊力を獲得しようとするので、参宮者がその行為を見て、正しい作法であると思ってしまう。
他の些細な例がある。東京駅で新幹線を降りあたら、切符を改札口に入れる。特急券はそのままだが、駅の出口はまだ先なので、乗車券は必ず出る。しかし、初めて来た人は、終点で降りたので、切符がなくなることを当たり前と思って、取ろうとせず、出口の改札口で困る。最近、その新幹線の改札口で係員が立って、「切符が必ず出ますので、お取りください」と繰り返して言う。初めての方は多いので、そうするしかない。
だから、子供が「教えてくれなかった!」と訴えたら、原則として認めるべきだ。大人も、この場所の適切な行動が分からないこともあるし、大人だから聞くのは恥ずかしい場合も多い。(外国人であることはこの点で有利だ。私が聞いても、日本人は不思議に思わないからだ。)案内板や環境づくりで適切な行動をなるべく分かり易くするように工夫するのは良いが、完璧な対策にはならない。だから、寛容も重要だ。