危機対応

昨日のニュースの一つは、AKB48の事件だった。握手会でメンバーの二人とスタッフの一人は負傷したそうだから、早く治るように祈る。

その握手会は中断されたし、今日予定されたイベントは延期された。そして、姉妹グループのイベントも延期されたそうだ。これは自然な反応だと思うが、正しいかどうかちょっと考えたい。

先ず、安全確保の立場から、必要はないと言えよう。今回の犯罪は、組織犯罪ではなかったので、来場者の一人は犯罪者だったが、他の犯罪者がいる可能性は非常に低いと思える。そして、ファンががっかりする。だから、なぜ中断するのだろう。

もちろん、負傷したメンバーは辞めて、治療を受けるのは当たり前だ。一人の握手会であれば、中断するしかない。しかし、AKB48は48人だから、負傷した人が病院に行っても、続ける。それでも、中断するのは適切な判断だと言える。理由は複数ある。

一つは、他のメンバーの不安だろう。客観的に考えれば、特に恐れる理由はないとはいえ、緊張して恐怖するのは当然だ。その不安が落ち着くまで、休憩をとるべきだ。

もう一つは、安全の対策の見直しだ。問題が起きたからといって、対策には問題があるとは限らない。完璧な防備はないので、できるだけ強い警備であっても、たまにこのようなことがある。しかし、問題が起きたら、検討して、問題があるかどうか確認する。例えば、今回のニュースで鞄の中には危険物があるかどうかは確認されなかったとの報道があった。それは本当であるかどうかを別として、そうであればこれから鞄の中身も確認することにするのはいい対策だ。警備体制を考え直すうちに、握手会を中止するのは必要だ。

そして、再発での問題だ。万が一中断せずに続いていた間に同じような事件が発生したら、もうおしまいだ。対応が悪かったと批判され、同じようなイベントを将来に開催することが極めて難しくなる。しばらくの間止めたら、その最悪の結末は避けられる。

他方、イベントは大変重要だし、中止すればファンががっかりするし、グループの経営にも影響を与える。だから、延期されたイベントの開催をよく考えなければならない。ファンを重視することを示すと良いが、もちろんメンバーの安全を確保しなければならない。

特に問題になる状況は、警備には欠陥はない可能性だ。ただ、運が悪かったということ。鞄の中を確認したが、刃物は見逃された。そのことはある。その場合、警備を改善することはできない。そして、イベントを永遠に中止することもできない。警備を強化したと嘘をついて続くしかないだろう。

疲労

昨日、とても疲労した。真由喜と一緒に温水プールに行く予定だったが、無理だった。近い将来に一緒に行かなければならないよね。

最近、仕事のせいで日曜日に疲れてしまうことは多い。火曜日から土曜日まで働くので、驚くほどはないが、真由喜が学校に通っているので日曜日に一緒に遊ぶべきだ。だから、私のスケジュールを変えて、可能にするしかない。仕事の量を減らすのは重要だと思う。それを実現するための計画があるが、間もなく実現したい。

では、力を蓄えよう。

何も明らかではない

もう十年以上前の話だが、日本語学校で好きな言葉を日本語で書いて、クラスに紹介するレッスンがあった。私は、この「何も明らかではない」という言葉を選んだ。

イギリスから日本に来たら、これを実感した。簡単に説明できた例は温泉だった。「どうすればいいか分からない。だって、イギリスの第一の常識は、裸にならないことだ。」それに、最初のころお祝儀袋をカードのようなものだと思い込んでしまったし、神社の作法も全く分からなかった。お箸ぐらい使えたが(それは本当に難しくないよ。外国人には「お箸は上手ですね」と言わないでください。「日本語は上手ですね」は大丈夫だけど。日本語を取得するためにかなり苦労したからだ。)レストランの支払い方は謎だった。(イギリスでテーブルを立つ前に必ず支払う。そうしないと食い逃げの疑いで拘束されるだろう。)

国の間の文化にはとどまらない。地球が太陽を回るのは現在の常識だが、古代ローマでは太陽が地球を回ると確信した。月の反対側は、人間がいつまでも直接に分からない例として挙げられた。先日の天皇と太陽の比喩も同じような感覚だった。

教えてもらう前に、何も明らかではない。子供がとんでもないことをするが、子供だから許される。しかし、文化を移動すれば、大人もとんでもないことをする。理由は同じ。まだ教えてもらっていないからだ。明らかだと思うことは、幼い頃に学んだことの場合は多い。土は食べられないことは、赤ちゃんの多くに教えなければならない。

より些細なことについてもある。「この場所に入っても良いだろう」と考えたら、どう決めるか?常識だと思うかもしれないが、そうではない。神社を例として考えよう。解放された境内に入るのは自由。しかし、解放された拝殿に勝手に入るのはダメだ。作法が分からない人は、どうやってそういうことが分かるか。教えてもらわないといけない。大人になったら、看板を探したり、他人の行動を真似することは多い。例えば、伊勢の神宮で人が滝祭神に手をかざす人は多いそうだが、それは神宮の神職によって失礼だそうだ。しかし、パワースポットを訪れる人はそのように霊力を獲得しようとするので、参宮者がその行為を見て、正しい作法であると思ってしまう。

他の些細な例がある。東京駅で新幹線を降りあたら、切符を改札口に入れる。特急券はそのままだが、駅の出口はまだ先なので、乗車券は必ず出る。しかし、初めて来た人は、終点で降りたので、切符がなくなることを当たり前と思って、取ろうとせず、出口の改札口で困る。最近、その新幹線の改札口で係員が立って、「切符が必ず出ますので、お取りください」と繰り返して言う。初めての方は多いので、そうするしかない。

だから、子供が「教えてくれなかった!」と訴えたら、原則として認めるべきだ。大人も、この場所の適切な行動が分からないこともあるし、大人だから聞くのは恥ずかしい場合も多い。(外国人であることはこの点で有利だ。私が聞いても、日本人は不思議に思わないからだ。)案内板や環境づくりで適切な行動をなるべく分かり易くするように工夫するのは良いが、完璧な対策にはならない。だから、寛容も重要だ。

感謝の心

感謝の心を重視するのは世界共通の心理だが、日本では特に強調されているだろう。食べる前の「いただきます」はまだ恒例だし。国々の比較はともかく、感謝の気持ちを軽視する人はいないだろう。私も重視する。ほぼ毎日、神前でその日の感謝することを申し上げる。

しかし、気づいたことがある。感謝することは、「一日分の仕事ができた」とか「真由喜が喜んでお稽古してくれた」などのことだ。些細なことだが、些細なことについて感謝するのは大事だ。些細であることは特に気づいた点ではない。気づいたのは、「食べ物が足りた」とか、「警察に冤罪されなかった」などではない。

もちろん、食べ物は本当に足りる。そして、冤罪されていないのも言うまでもない。それに、確かにありがたいことだ。餓死にかけたら、それは良くないし、刑務所などにも入りたくない。では、なぜ感謝することとして思い浮かばないだろう。

それは、もちろん、日常的で標準である状態であるからだ。人と話してから、「私の顔を殴らなくて、ありがとうございます」とは普段言わないよね。だって、殴らないのは当たり前だし、常識だ。つまり、当たり前なことに対して、感謝しない。それは人間の心理だろう。

私は、それで良いと言いたい。当たり前のことは、意識しない。気づかない。だから、感謝するように思わない。たまに「この社会で外出しても殺されないし、食べ物も豊富だし、医療もあるし」と思って、感謝を改めて感じるのは良かろうか、日常的な状態として維持できないと思う。そして、無理に日常的な状態にさせようとするのも良くない。そのような日常的なことには意識しなくても良いからこそ、より意味がある活動に参加できるからだ。

そして、社会を改善しようとする人の立場から考えれば、ちょっと意外なことになる。つまり、社会を改善すれば、だれも感謝を感じない状態を目指す。つまり、改善された状態を当たり前な状態にさせて、普段は誰も考えないことになって、誰も感謝しない。つまり、努力が一般の意識から消えることだ。その状態にならない限り、社会の改善はまだ不完全だ。

確かに、これは「匿名で社会に利益を与える」ことではない。改善する当時で感謝する人はいると思えるし、歴史を勉強する将来の人にも評価してもらえる。それでも、できれば自分が生きている内に社会に意識から姿が消えるようにできれば、それこそは成功である。そうすれば、感謝のことの対象は、まだまだ問題であることがうまく行く場合になる。