自立心

真由喜はもう小学生になっているので、自立心が発展するのは当たり前だろうが、目の前で現れたらまだまだびっくりする。

先日の話しだが、私は肉眼で見なかった。仕事に出ていたからだ。(やはり、働くお父さんは大変だ。子供の成長の重要な節目を見ることはできないからだ。)ゆり子の話によると、出来事は下記の通りだった。

下校した真由喜が家に入る前に一つ、二つ上の友達に「後でね」と言った。入ったら、雨の日に猫を数える約束があったと説明したので、宿題とワークをしてから、また友達と一緒に出かけようとした。猫を数えてから近所の子供文化センターに行くつもりだったが、親抜きに行く子供は、連絡先の電話番号を書かなければならない。真由喜はその番号は分からなかったので、メモを用意して出発。2時ぐらいだったので、ゆり子は「4時までに帰ってね」と言っておいた。子供同士で出かけた。

そして、猫は見つけられなかったそうだが(悪天候のため雨宿りしただろう)子文で楽しく遊んでから、4時に帰ってきた。真由喜はお腹がすいて、そして疲れたのでぐずったが、ゆり子が前日から残った提案をした。真由喜の一人でのお遣いだった。郵便局の前のポストで投函すること、そして近所の八百屋さんでミニトマトを買うこと。

一人で真由喜が出て、一人で用事を済ませて帰ってきた。

この出来事は大歓迎。真由喜の活動する範囲を徐々に広がることは良いし、自立心を育むのも重要だ。その上、ゆり子の自分のことができる余裕も増えるので、それも良いことだ。自転車で行くことになったら、範囲が更に広がる。まだまだ独立できない子だが、このように進んでほしい。

やはり、入学することは、大きな節目だよね。

長距離自転車運転

先日の休日に、真由喜がゆり子と一緒にお出かけした。(私は、休日にも拘らず仕事だった。)真由喜は、その前からの計画を実現した。それは、自分の自転車で、ペダル付きでこぎながら近所の東高根森林公園に行く計画だった。それは、ちょっと寄り道を入れて成功させた。そして、二子玉川での深海魚の展覧会に行くことになっていたが、真由喜は駅まで自転車で行くことにした。

駅は、家から4キロ程度だ。川沿いで行ったら、坂は少ないし車等も少ないので、小学生にはできるが、自転車を習ったばかりの真由喜にとっては確かに遠いと思う。それでも、駅まで至ってから、二子玉川で楽しめたそうだ。

そして、同じ距離の帰り道。自転車を家まで戻す意思は強く、またこいだ。1時間がかかったが、無事に帰れた。もちろん、ゆり子は歩いて帰ったので、ゆり子の運動も良かったと言えよう。

それほど頑張った真由喜は疲れていたが、それでも〆切が迫っていたワークを完成させた。確かに私が側にいるのは必要だったが、自発的にしようとした。応援したら、比較的にすぐにできた。

真由喜の自転車意欲が強いままで続けば、私も自転車を買うつもりだ。家族で自転車で移動したら、近所に簡単に行ける場所がかなり多くなるからだ。そして、健康に良いし。今は芽生えだけだが、期待している。

いわゆる従軍慰安婦問題

昨日のNHKラジオニュースで韓国で開かれたシンポジウムについての報道があった。そのシンポジウムは、従軍慰安婦問題についてのものだったが、日本の法的責任を求めることではなく、歩み寄れる道を探るためのシンポジウムだったそうだ。元従軍慰安婦も参加したそうだから、個人的に重要な機会なのではないかと思っている。

日本側の依然としての主張は、法的責任はもうないということで、韓国との条約で解決済であるということだった。私の理解で、日本の立場はこの点で正しいと思う。法的責任は、法律によって定まる。国際関係で、法律というのは、条約ということだ。国内の法律は無効だ。条約で、日本にはもう賠償責任などはないと明記されているそうだから、法的な責任はない。それは明らかな事実だ。だから、韓国側が「法的責任」を訴える限り、日本には歩み寄る余地はない。条約を白紙にすることはできないので、法的責任を認めることもできない。韓国側で、このことをよくわかって、日本が対応できないようにわざと強調した人もいるのではないかと疑うが、真摯でこのことを訴えた人もいるのは疑えない。

しかし、法的責任はともかく、倫理的責任は条約で解決できない。日本側は、倫理責任を認めるべきだと思う。

先ほどこの問題について論じたら、仮に強制的だったとしたが、それは徴兵制と比較するためだった。今回は、仮に日本の政府や軍の長官が強制的な行為を認めなかったとする。つまり、慰安婦になることは、制度上任意だったことを前提とする。本当にそうだったかどうか分からないが、制度が存在したのは否めないので、これは日本にとって一番甘い状態だ。そうであっても、倫理責任があると言える。

まず、慰安婦を大量で集めようとする制度で、強制的にこの役割にさせた女性もいるのは予想できる。強制的なことを排除するために、厳しく制圧するべきだったが、その管理は明らかに不十分だった。そのよう悪用される制度を設置して、そして管理しないことは、倫理責任に当たる。

それより根本的な問題がある。この制度は、女性を、特に日本人ではない女性を軽蔑する制度だった。そのような制度を設置すること自体は、重い倫理責任になる。

なぜそう言えるかというと、日本政府の態度から判断できるからだ。仮に、従軍慰安婦は軍の円滑な運営のために必要であるとしよう。その場合、慰安婦は日本のために重要な仕事をしている。看護婦などと同じような貢献だ。だから、日本政府が広告を出して、日本人の若い女性を慰安婦として貢献するように促した。そして、慰安婦に派遣される女性を、兵士として派遣される男性と同じよう「万歳!」で見送って、亡くなったら靖国神社に鎮座する。

このような行動はなかったのは言うまでもない。

つまり、日本政府は慰安婦になることは恥だと思うにも拘らず、制度を設けた。それで、主に外国人をこの仕事に使ったそうだ。(日本人の女性も入っていたそうだが、極めて少数だったようだ。)これは強制的ではなくても、重い倫理責任になる。

だから、日本は謝罪すべきである。その上、生きているうちに元慰安婦の苦労を認めるべきだ。このような態度で韓国の潮流に対応してほしいのである。