日本語読書

これから、日本語での読書を増やしたいと思う。

基本的な理由は、フィクションを楽しんで、ノンフィクションで世界をより深く分かることだが、それは読書一般の弾みとなり、日本語での読書と特別な関係はない。確かに、神道について知りたかったら、日本語で勉強するしかない。英語で読める書籍は少ないし、問題もあるからだ。しかし、死ぬまでに読み切れないほど楽しい英語の小説はあるし、日本語の小説は英訳で読むこともできる。科学などについての本も、英語で読める。その上、英語で読めば、より早く読めるし、より楽しい。

それこそ、日本語読書がやりたい理由の一つだ。日本語で英語と同様に読めるようになりたい。日本で10年間住んだことがあるが、英語の本はもう40年以上の付き合いだ。日本語はまだ劣るのは当然だが、改善を目指したい。そうするために、読むしかない。

そして、このブログでの日本語の執筆との挑戦にも貢献する。短歌は詠みたいと先に述べたので、短歌についての本を当然読む。祝詞を作成するために、祝詞作文を紹介する本も読まなければならない。しかし、それだけではない。

私の日本語の言葉遣いは変であるとよく言われている。それは、読む日本語には傾きがあるからだ。神道についての本をたくさん読むし、『神社新報』も読む。『神社新報』は、歴史的な仮名遣いを採用するので、「行ふ」のような表記に慣れてきた。しかし、普通の話題について書けば、それは相応しくない。言語を美味く使うことは、内容や場面に合わせて適切な言葉遣いを使うことである。だから、より広い範囲の日本語は読みたい。

そして、日本語での語彙にも限度がある。日本語で簡単に書けないこともある。このような概念を、どうやって日本語で表現するのかはよくある問題だ。科学問題は簡単な例だが、哲学にも同じこととぶつかる。日本語で科学や哲学について読めば、その単語や言葉遣いを自然に習う。

だから、日本語での小説は読みたい。最初は夏目漱石などの明治文豪を読むと良いかと思ったが、神道についての本の影響で、私の日本語は古臭いそうだから、現代の日本語を読んだほうが良いと思ってきた。現代の小説というのは、文学だけではなく、ライトノベルも含まれる。なぜかというと、予定通りこのブログで連載小説を公開すれば、文学ではなくライトノベルになると思うからだ。そのような作品に適切な日本語を学ばなければならない。漫画も読みたいが、それは会話の書き方に慣れるためだ。

ただし、今月末に神社検定壱級を控え、今のところその公式テキストを読むことで精一杯だ。この計画が本格的に開始されるのは、7月かな。


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