子供の頃は、何のための期間だろう。成長するための期間であるのは疑えないだろう。子供である限り、大人ではないが、子供から卒業すれば、大人だ。だから、子供の頃が終わるまでに、成長しなければならない。
先の躾についての投稿で、子供は子供である限り、適切な行動や態度はとれない。そうできるように成長するので、躾はその成長を応援する行為だ。だから、罰は躾の範囲に入らない。
より一般的に子供の頃を捉えれば、子供は様々な行動を試すので、失敗するのは当然なことだ。子供だから、馬鹿なこともする。親の役割、そして社会の役割は、子供の頃の失敗は、なるべく人生へ影響を及ぼさないことだろう。
もちろん、これ限度がある。ある子がしっかり勉強して、習い事にも励んで、二十歳になるまでにケンブリッジ大学を卒業して、それにピアノ演奏を披露することになったら、テレビゲームばかりした子供より大人の出発点は有利であるのは明らかだ。知恵や運を表して、子供の頃でも良い道を歩む子には利益があることは当然だし、禁じるべきではない。そのような道を導くのは、親の使命の一つだ。
しかし、子供の頃の行動が大人の行動を縛ることは許すべきではない。子供の頃、ジュニアアイドルしても、裁判官になれることは重要だ。学校で一切勉強しなくても、大人になって、勉強を保管して東大に入学できる状況も必要だ。子供である間に犯罪を犯すとしても、大人になったらもう水に流されたこととするべきだ。
それに、子供が間違えたら、その時点でも結果を最低限に抑えるべきだろう。もちろん、間違いだったことは実感できる結果は避けられないが、長期的な落ち込みとつながないようにとか、怪我が酷くならないように工夫するなどは重要だ。
とはいえ、失敗させるのも重要だ。子供であるからこそ、長期的な結果はないからこそ、失敗させるべきだ。子供は、自分の失敗から学ぶし、自分の意志を把握するし、親の指導以外の知恵を得る。その時点で、子供が喚くのは当然だし、子供が苦しむことも。これは、数週間が経つと治る程度であれば、成長の一部なのではないかと思っている。
子育ての難しい点の一つは、深刻な被害を与える経験から子供を守りながら、成長の刺激になる被害に晒させることだろう。ある本で読んだ基準は、12歳までの悲しみを些細なことにしたら、精神的に強い人間に成長することだった。それで、子供の自分で選んだ行動で些細な悲しみや被害を予想できれば、助言を提供することにとどまるべきだ。大きな被害になると思ったら、禁じて防ぐ。そして、些細な被害で喚く子を慰める。もちろん、子供が自分で招いた問題だが、子供だからこそその結末は予想できなかった。
子供を愛することは、将来の自立した大人を見据えることでもあろう。