自由と損害

まだまだ本格的な自由を導入するために必要な措置について考えているが、最近損害について考え直そうとしている。

19世紀のMillの『自由論』以来、自由主義の原則は「他人に損害を与えない限り、自由にさせろ」ということだった。すぐに納得できる原則だが、実現しようとすれば、無理であることに気づく。

簡単な例は宗教に基づく憎みである。宗教の原理主義者にとっては、他宗教の実践を見ることは大きな精神的な打撃となる。むしろ、どこかでその宗教はまだ行っていることでも、苦しみになる。だから、この人に損害を齎さないように、他の宗教を禁じるしかない。その上、自分の宗教に従わない人の存在でさえ、痛みを受けるので、その宗教に強制的に従わせるしかない。

先ず以て、それは自由主義を覆す。宗教を課すことは、自由主義の正反対だ。

それだけではない。宗教の原理主義者は、一つの宗教には限らない。だから、複数の宗教を禁じて一方、禁じた宗教に強制的に従わせることになる。それは、論理的にはできない。実践の問題ではない。

同じように、自分の宗教は批判されたら、苦しむ人も少なくない。この苦しみは本当の苦しみだ。軽視すべきではない。人は、自分の人種が批判されたら苦しむこととそもそも同じである。人種差別で発生する精神的な損害は認められるので、宗教の批判から発生する精神的な傷も認めなければならない。しかし、これも問題が。自由主義で宗教の批判を禁じることは到底できない。

だから、「他人に損害を与えない限り、自由にさせろ」と言う原則を修正しなければならない。「他人に余計な損害を与えない限り、自由にさせろ」ということになる。

しかし、「余計な損害」とは、具体的には一体何なんだろう。

歴史を見れば、精神的な被害は期限なく許すが、肉体的な傷を一切許さない方針をとったかのように見えるが、それは合理的ではないし、私は認められない。ストーカー被害は大きな被害で、生活を潰すことはできるが、精神的な範囲から出ない場合は多い。(なぜなら、肉体的になったら明らかに違法になって、逮捕とつながるからだろう。)だから、別な基準は必要だ。

幸い、自由主義なら、自然な基準がある。「自由を制限しない損害を許すべき」という基準だ。

これで、現行の制度の大半は保たれる。殺人は自由のすべてを奪うので、厳禁だ。暴力でも、治療を受けている間に自由を厳しく制限することだから、それも禁じられる。窃盗は、その物を使う計画を滅ぼすので、禁じるべきだ。一方、ユダヤ人が男子の包皮を切り捨てることは、明らかに傷であるが、自由を制限しないので、許せる範囲に入る。悪口は、一回だけであれば、許すが、環境になったら許せなくなる。環境であれば、その人の活動を大きく制限するからだ。

この基準はいつも明らかな判断を提供するとは限らない。しかし、基準には明らかな理由があるし、自由主義との関係も明らかだ。だから、この基準に基づいてさらに考えたいと思う。


投稿日

カテゴリー:

投稿者:

タグ: