性善説と性悪説

日本で性善説が制覇すると言われる。神道の基本は性善説だとされたし、日本人は無防備で財布などをカフェの席に起きっぱなしにしてトイレなどに行くことは日常的な事実だ。そして、置いた財布は、テーブルに戻ったらそのままにある。アメリカは愚か、イギリスでもあり得ない話だ。先日レッスンで訳した本によると、中国でもあり得ないそうだ。その違いは何なのか。

中国は性悪説だと主張する本で、大陸国と島国の違いと位置づけたが、イギリスも島国だから、それだけであるはずはない。神道に由来を探す人もいるが、日本の文化では仏教も強いし、仏教はいずれにせよ性悪説の方だろう。悟らないかぎり。私は、より簡潔な説明があると思ってきた。

私が思うには、ある社会で性善説が一旦制覇すると、その権力を自然に維持する。同じように、性悪説が制覇すれば、それも自然に続く。代替させるのは革命に近い。

なぜかと言うと、性善説が広がると、周りの人の行動を好意的に解釈するし、信頼する。好意的な解釈で、曖昧な場合は、性善説の証拠として捉える。そして、周りの人を信頼することは、普段、自分も信頼に応えることになる。例外があるが、他人がたよりになると思う人は、裏切ることは少ない。だから、他の人を信頼して、裏切られないことになる。それは、性善説の証拠になって、確信が強まる。

このような環境で育つ子供は、周りの人に持ちつ持たれつするように学ぶ。そして、自分はいい人であると思って、その想像を損なう行動を避ける。悪質な行動をとっても、周りから例外として扱われ、改善しようとするはずだ。

一方、性悪質が制覇すれば、逆だ。周りの人に信頼しようとしても、その人は詐欺の入り口だと疑って、頼りにならない。周りの人を信頼できないことを積み重ねる経験で確認して、自分の防衛することに気をつけて、周りの人を疑心で見る。疑われていることを感じる周りの人は、それに答えて慎重に行動して、騙されないようにする。子供も、自分を守らないと利用されることを自然に学ぶ。

つまり、その国の性質であるとは言えない。ただ現在までの60年間の経験の稔りだ。だから、中国で性悪説が制覇するのは驚くほどではない。戦後の中国は、波乱万丈の歴史で、国家も隣人も信頼できないことは多かった。一方、日本では協力する安定した社会が主に続いてきた。それに、格差社会ではなかったので、除外された気分の人も少なかった。

日本のこのような国柄を保つのは重要だと思うが、その方法について慎重に考えなければならない。単純に学校で道徳教育を導入するのは校歌は薄いと思う。中国でも、アメリカでもそのようなことがあるが、人生で経験する人の行動は、明らかに道徳教科書と違ったら、教科書はただただの綺麗事であると子供は把握する。道徳教科書より、政治家は自分の行動、大手企業の行動、そして官僚の行動が良い模範になるように努力すべきなのではないかと思わざるを得ない。


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