自分の便宜のために、子供は何人死んでも良い?
そう訊かれたら、「一人でも多すぎる」とふっと答える人は殆どだろう。しかし、子供が必然的に死んでしまうことを黙認する行動は多い。身近な例として、私有車を挙げよう。日本国内に限っても、毎年百数十人の子供が交通事故で亡くなるそうだ。一般人には公道での運転は許されていなかったら、この数値が激減するに違いない。先ずは、車の数が激減する。そして、運転士は皆プロになって、訓練をより厳しくすることもできるし、飲酒運転などをより防ぐことはできる。
その上、私有車は禁じられたとしても、生活が無理になるわけではない。公衆交通機関がすぐにより充実になるし、田舎でもバスで移動できるようになる。小売り施設の形も変動するかもしれない。確かに、人生の便宜がちょっと劣るが、死活問題から程遠い。(私は、車を持ったことはない。現在でも、多くの住居地ではその状況で生活を送ることはできる。)
だから、仮に便宜のために毎年100人の子供が死んでしまうとしよう。ちなみに、これは原発の影響で死ぬ子供の数を、最悪の試算でも50倍ぐらい上回るだろう。放射線の影響は、中年になってから現れる傾向は強いからだ。さらに、原子力発電は、地球温暖化対策として有力だが、地球温暖化が文明を滅ぼす恐れさえある。つまり、便宜のために毎年100人の子供を平気に犠牲とさせるが、人間の文明を救うために一人か二人でも多すぎる。
安価の洋服も同じだし、電気製品の処分も同じだ。現行の貿易制度もそうだ。
人の子供が死んでも平気だと言ったら、耳が痛いが、私は直接に批判しない。なぜなら、不慮な事故は完全に防ぐことは無理だから、人の子供が死ぬことも避けられない。人間は皆そう言うことに共感したら、人生が崩壊する。生きるために、このような悲劇を一つ一つ無視するしかない。ただし、一般的な方針を講じる場合、このような影響や結果も踏まえなければならないと思う。
一般人に運転を禁じれば、実は良いことはたくさん予測できる。子供の死が少なくなるを第一として、子供やお年寄り、低所得者の動きがさらに自由になる。なぜなら、このような人は運転できないが、公衆交通機関に乗ることはできる。そのような交通機関がさらに充実になったら、この人はさらに自由となる。そして、二酸化炭素の排出量も減ると思える。車に二人以下が乗れば、バスなどより排出量は多いそうだ。そして、間接的だが、商店街や地元の共同体が強くなるのではないかとも思える。遠距離の買い物が不便になると、日常生活のための拠り所が近所に戻る。
もちろん、悪影響もある。著しいのは、愛知県の経済が完全に崩壊することだろう。だから、簡単に「禁じろ」と言わない。バングラデシュから輸入された洋服も同じだ。ただし、現状を当たり前として思って、十年かけて改善できることを見逃す訳にはいかないと私は思う。