性交とフィクション

フィクションで、性的な行為が主役を担うのは、ポルノに限るだろう。そして、このような作品は一般的に軽視されている。(安定した売りがあるとも言われるけれども。)一方、戦や乱暴が主役の担う話は少なくない。しかし、日常生活で、性的な行為が露にならない限り批判しないが、暴力は絶対だめだと言う。

この違いの理由は何だろう。複数あると思うが、最近もう一つの候補に思いついた。それは、話の構造から発生する理由だ。

話の構造で、戦いで何が起こるかは、話の展開にとっては大変重要であることは多い。少なくとも、簡単に要にさせられる。主人公が生き残るのは決まっているとしても、敵を倒すか、負傷するか、負けるか、様々な結果が待つ。そして、負傷すれば、どこで負傷するのは重要だ。戦いの過程によって、敵についての情報が得られる。ジャンルによって、戦いながらの話も重要な役割を担う。

しかし、性的な行為は違う。その出来事があったこと自体は、話にとって大変重要になることは多い。話の原動力になる場合もある。しかし、あったことでもう充分だ。描写する必要はない。そして、性的な行為の詳細が話へ影響を与えることは殆どない。だから、性的な行為を描写すれば、話の展開の軌道からの逸脱になる。原則として、話の軌道から逸脱することはよくない。それは性的な行為の描写にせよ、無意味な戦いにせよ、パリの下水道に歴史にせよ、(それは、ヒューゴのレ・ミゼラブルに出てくる余談だ。冗談ではないし、問題にもなる)話の構造での問題になる。

だから、性的な行為の詳しい描写が入れば、ただ単に色欲を引き起こすために入れ込んだと思われる。性的な場面のみを読んでも、特に理解には問題はない場合、そして性的な場面を飛ばしても問題はない場合、このような問題がある。それに、そのようなことは多い。

今アメリカで大人気になっている「A Game of Thrones」という番組には、裸は多いそうだ。そして、「歴史を説明しようとするとき、裸体な女性を数人に説明することは多い」とも言われる。それは、裸を見せるシーンを、話に関連させるための工夫でもあるし、結局説明するしかないと判断したところを退屈させないための工夫でもある。しかし、おかしく思う人は多いようだ。同じような問題は多い。

実は、十数年前に「秘書」というアメリカ映画を見たが、性的な行為を話の展開とうまく関連させて、登場人物の成長と関係の構築をよく描写して、主役の女性がやっと裸で登場したら、その裸には大きな意味が込まれた。(つまり、素直に人と接することはできなかった問題が解決されたことを明らかにした。)だから、できなくはない。それでも、意外と難しいようだ。

挑戦する前に、腕を鍛えなければならない。


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