吉田神道と神社本庁

『神社のいろは 要語集 宗教編』で、吉田神道が論じられる。室町時代から明治維新まで、日本の神社の大半を管理したので、見逃すわけにはいかない。吉田兼倶が吉田神道を発足したが、独自な神道観念に基づかせた。もちろん、15世紀までの神道から強い影響を受けたが、伊勢神道の影響も見えるとせよ両部神道の影響も見えるとせよ、独特な祭祀などを持つ神道だった。兼倶が自分の作品を歴史的な人物に仮託したし、勝手に応仁の乱で破壊された神祇官を継承したと主張した。ただし、天皇からも幕府からも認められ、神道裁許状という免許を発行した。この神道裁許状は、神職へ様々な資格を与えた。例えば、神道相伝の項目で様々な祭祀作法や所作の取得を認めた。『神社のいろは 要語集 宗教編』272頁で「吉田神道における実習的側面を窺い知ることができる」と書いてある通り、神職の養成に関わった。そして、別な種類の神道裁許状で神職の身分を定めて、神職の服装を定めて、そして神社の勧請などを許可した。

現在の吉田神道の説明が批判的になる傾向は強い。一つの理由は否めない。何にしても、吉田兼倶が基礎となる書籍を作成して、そして歴史的な人物に仮託して、そして朝廷からの歴史的な詔などを捏造した。このような行為を基盤とする組織を高く評価することにはハーダルが高い。

しかし、もう一つの理由は、正当な神祇官ではなかったということだ。つまり、吉田兼倶が勝手に神社界の権力を握ろうとした批判だ。『神社のいろは 要語集 宗教編』を読んだら、後者の批判は認めにくいことに気づいた。

なぜかと言うと、吉田神道の位置と神社本庁の位置は非常に似ているからだ。

双方は、戦争で滅ぼされた神道を管理する組織の跡を継いだ。吉田神道の場合、応仁の乱で破滅された神祇官の機能を担ったし、神社本庁は神道指令で廃止となった神祇院の機能を受け継いだ。そして、双方の創設者は、消えた組織で重要な役割を持った人だった。吉田兼倶は、卜部氏の末裔で、神祇官の高官の職を世襲した家柄だった。確か、応仁の乱の前に神祇官で働いた。そして、神社本庁を設立した方は、神祇院や神社界で重要な役割を担っていた人だった。双方は、天皇や朝廷に設立されなかった。そして、双方は後ほど朝廷の黙認を受けたが、天皇や政府の干与はあまりない状態で、独自的に神職の資格の基準を定めたり、服装や身分を設定したり、神職の養成を行ったりした。その努力の結果、神道が生き残った。それだけではなく、繁栄したとも言える。確かに、神社本庁の創設の資料は捏造ではないが、一方神社本庁は天皇や政府から正式に認めていない。吉田神道は天皇と関わったし、江戸幕府の「諸社禰宜神主法度」で正式に神社の大半の管理組織として認められた。江戸時代の吉田神道のトップは、捏造を行わなかった。

神社本庁にも独特な神道観念がある。吉田神道の観念と大きく異なるが、吉田神道の観念と同じように、歴史的に見える神道の要素の流れを汲む。捨てる部分もあるが、それも吉田神道と同じだ。そして、吉田神道と同様、他の流れを汲む神道を厳しく批判することはある。

重要な相違点は、吉田神道は400年生き残って、今なお「古神道」の名目でその影響が見えると言われている。(古神道はまだ詳しく調べていないので、この点について何も言えない。)神社本庁は戦後の創設で、まだ70年に至っていない。本居宣長まで遡らせても、250年程度になるが、明治時代の神祇官は組織的でな具現だっただろう。つまり、神社本庁は比較的に新しい。

そして、吉田神道が自分の優越性を強調したが、修験道や両部神道の存続を認めた。神社本庁の母体である国家神道は、吉田神道、修験道、両部神道、山王神道を潰そうとして、完璧ではないがほぼ絶滅させた。これは、資料を捏造する行為より批判するべき行為であると言わざるを得ない。もちろん、江戸時代の吉田家には捏造の罪はなかったと同様に、現代の神社本庁には他の宗教を弾圧した罪もない。

歴史的に見れば、「本当の神道」を指摘するのは難しいが、神社本庁を現代の吉田神道として考えれば、神道の流れの中の地位が分かるのではないかと思った。