和魂と荒魂

今日の投稿も『神社のいろは 要語集 宗教編』から弾みを受けて論じるテーマである。神道の神観念では和魂{にぎみたま}荒魂{あらみたま}は重要な概念である。例えば、伊勢の神宮で荒祭宮で天照大神の荒魂が鎮座されるし、兵庫県の廣田神社の御祭神は天照大神の荒御魂である。神様には必ず和魂も荒魂もあると考えれるし、別々で祀ることもできる。だから、二つの御霊が存在するのではないかと思うだろう。神道の通説は、そうではないということだ。本居宣長は、一つの火から蝋燭と薪に火を移しても、元々の火はまだ一つの火だし、蝋燭と薪は働きに過ぎない。和魂は蝋燭で、荒魂は薪であるとも述べたそうだ。

これで、御霊の違いが焦点となる。漢字から推測すると、和魂は穏やかで、荒魂は荒々しいと思うが、それとちょっと違う感覚がある。荒魂はただ単に荒々しい御霊であれば、祟り神のイメージに近いが、そうではないと思われる。鈴木重胤という国学者は、「荒魂は物を成すの意、和魂は事を務むるの意なり」と書いたそうだ(225頁)。そして、高御産霊神を天之御中主神の荒魂として、神産霊神を和魂とした。それを展開して、荒魂が物を成して、つまり創造して、和魂がそのことを守って整えるという概念になった。

私は、この観点に近い。去年、英語で書いてあるゲームのKannagaraのために荒魂と和魂の働きを定義した。それで、荒魂は既存状況と違う出来事を発生する力として、和魂は既存状況の中で守ったり成長させたりする力とした。重胤の考えに驚くほど近い。その考え方に辿り着いた経緯について、ちょっと書きたいと思う。

私の神道観念では、産霊は重要な位置を占める。(これも、『神社のいろは 要語集 宗教編』に出てくるので、後日にその話題について書くだろう。)産霊というのは、創造する力、そして成長する力として考える。つまり、私の神道の基礎には創造と成長がある。だから、神の基本的な働きも、創造と成長として考えたいのである。簡単に割り振りすれば、創造と成長を荒魂と和魂に当て嵌めると良いのではないかと思えるが、そう簡単ではない。特に、和魂は豊穣などを齎す御霊として思われるが、それは創造か成長かは、曖昧だった。そして、荒魂には「荒」という漢字が入っているので、それも尊重したいと思った。

現状が変わると、慣れてきたことが覆されることもあるし、生活を立て直す必要がある。そして、現状を変わる現象は、荒々しい災害などもあるが、真新しい発明もある。現状を大きく変えることは望ましい場合も充分ある。例えば、女性の社会参加は、儒教の既存状況を根本的に覆すが、男女平等は良い事だから、荒々しい状況の変更は望ましかった。望ましいとは言え、女性にとっても楽なことではない。男性にとってはとても難しい側面もある。

だから、荒魂はちょっと怖い。それほど大きな変化に対応するために、不安な気持ちで努力しなければならない。祟りも荒魂の働きになるので、その「荒」も尊重する。その上、権力者にとって根本的な変更は好ましくないことは多い。なぜなら、今権力を握れば、社会が下克上になったら今持っている利益を失うからだ。だから、権力者が和魂をより篤く崇敬したら、当たり前だろう。

そして、現状を維持したり守ったりすることは、豊穣を齎したり、地震を防いだりする行動にもなる。子供の健やかな成長も、和魂の管轄に入る。子供が存在すれば、成長は現状の自然な展開であるからだ。ただし、出産自体は荒魂の管轄に入る。現状の大きな変化を齎すことであるからだ。

このように分けたら、荒魂も和魂も崇めるのは当然だし、普段は和魂の働きを求めることも当然。だから、神道の実践で見える模様は、この概念から発生できる。

感謝の心から考えれば、日常的な感謝は和魂に捧げる。毎日、根本的な変化はないからだ。一方、特別な創造などを感謝する場合、それは荒魂を対象とする。祈願も同じだ。和魂に祈願することは多いが、荒魂に祈願することもある。

つまり、私の観念は、鈴木重胤の観念に近いが、さらに独自的に発展した。

ところで、橘守部という国学者は、荒魂は元の御霊から別れて、現れる御霊であると論じた。だから、私の観念が全ての神道学者と合うとは到底言えない。


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