「
神様の名前でよく出てくる言葉だ。古事記の冒頭に現れる造化三神の二つは高御産霊神と神産霊神であるし、宮中の八神殿で祀られた神の五つは、
実は、『延喜式』に納められた祈年祭の祝詞を読めば、産霊の神は天皇の守護をするように見えるし、天照大神にたいする内容は、後で追加されたような印象を与える。(他の神に対する内容を重複するし、「辞別きて」という表現で別な段階として導入されるし、祝詞全体の構造から見れば場所は不自然だから、付け加えられたなのではないかと思う。)これを踏まえて、もしかして天武天皇の御代の前に、産霊の神は最高の神様だったのではないかと推測する。
それはとにかく、私の神道観念には産霊が中心的な位置を占める。産霊の「むす」は息子や娘の「むす」同じく、「苔が生す」とも同じだそうだ。(これも宣長説である。)この創造することや産むことも重視したいのだ。なぜかというと、創造するのは生きていることの意味になると思うからだ。つまり、生きることは創造すること。
そして、創造すれば、未曾有なこと、前代未聞なこと、予想外なことになる。簡単に予想できることは、創造の中心ではないと思う。創造してから明らかであると思われる場合もあるが、創造する前に思いつかない事態だ。このような創造は、前例に基づいて扱えない。そして、自由はないと、できない。許可はないとできなければ、創造はそもそも無理になる。なぜなら、創造する前にその存在は分かっていないので、許可できるわけはない。創造があれば、社会が変わって行く。これで、今想像もつかない素晴らしい未来が齎される。もちろん、この考え方は保守的な考え方の正反対である。将来がどうなるかは分からないが、少なくとも過去と根本的に異なるのは確実だ。
私は、このような積極的で前向きな思考を神道に託し、将来への展開を期待する。