外国の滞在

経験を広げるための一つの具体策として、外国滞在を挙げたいと思う。

実は、最良の施策だと思う。特に、日本から東アジア以外の国へ行けば、経験がかなり広がるが、韓国でも効果があるはずだ。ただし、ここでの「滞在」は、観光だけではなく、生活を送る長期滞在と言う意味だ。理想は1年間以上だが、6ヶ月でも役に立つだろう。

外国に住めば、複数の利益がある。

先ずは、外国の常識は自国の常識と違う。例えば、イギリスやアメリカで洗濯はお湯でするのは当然だから、日本に来たら洗濯機の水温をどうやって設定するかにはちょっと悩んだ。(日本語はまだまだだったし。すぐにできないことに気づいたけれども。)このような覚醒は、直接的に人生の材料になるとは言えないだろう。しかし、「当たり前」だと思ったことは実は当たり前ではないという認識は、大変重要である。生活などについて考え直すきっかけになるので、隠れた可能性に目覚める可能性を高める。

そして、外人である経験も重要だ。絆は殆どない社会で生きて、分からないことは多くある状況を乗り越えて、ゼロから友達を作る過程で、自分についてさらに学ぶし、自国での外人の経験についてさらに理解できるようになる。この変更は必ずしも「移民の受け入れ」にさせるとは限らない。もちろん、鎖国を憧れるようになる可能性は低いが、移民する人には滞在する国の言語を学ぶべきであるとか、母国の文化をそのまま持ってくるのは良くないなどの意見にもあり得る。(私は、そう考えるようになった。)外人になったら、社会を別な立場から見えるし、自分も別な立場から見るので、想像できる範囲が広がる。

外国語も重要な利益である。言語が思想を左右すると言われるが、それほど影響はないといえども、言語によって言い易いことも言いにくいこともあるし、異なる。もう一つの言語を持てば、考え方が柔軟になる。そして、外国語が流暢になったら、楽しめる作品も多くなる。翻訳された物は良いけれども、いつもなくされる側面があるので、原文と接した方が刺激的である。特に、文化に基づく点は、翻訳で誤摩化さなければならない場合は少なくない。

最後に、外国に住めば、その外国の文化と接するのは当然だ。その上、どの側面と接するかは、完全に選べない。日常生活の中で、興味を持たない文化の側面とも接するのは当たり前だ。そのことで、実はより深く知りたいと思ってくる場合もあるし、そうではなくても、予想外の経験になる。このような経験は、外国を母国から勉強する場合得られない。自分の興味に沿って勉強するので、それと乖離する文化の側面と接しない。一方、住めば、、回避できない。

つまり、外国滞在で、予想できる貴重な経験も得るが、それより重要なのは、予想できない経験だと思う。予想できない経験は思考の広大に一番貢献すると思う。

ところで、国会議員の条件として、6ヶ月以上外国で滞在したことがあると設ければ良いかと思ってきた。国会議員を目指すために他の仕事を辞めるための支援はもう必要だから、国会議員になれる人をさらに制限するとは思わない。しかし、議員の経験を豊富にさせて、国務に携わると大変役に立つのではないかと思う。

それは無理であるとしても、外国滞在をなるべく推薦するべきだ。国会議員だけではなく、一般市民にも大変役に立つと思う。

経験を広げる価値

経験を広げる価値は何だろう。経験は豊富であることは良いことだと思うのは当然であるような気がするが、それは私だけだろう。理由を共有しないと、誤解が生じるので、ここで私の考えを明らかにしたい。そして、自分の中で価値や最終目標ははっきりされていなかったら、具体策を選ぶのも難しくなる。「経験を広げる」と言う表現で、沢山の行動が包含されるので、価値を見据えて、適切な行動を選びたいと思われる。

豊富な経験の一番の価値は、想像力を高めることだと思う。

人間は、真新しいことを発想するのは難しい。それより、既に知っていることを組み合わせて、新しいことを構築することは多い。比喩的な考え方はその一例である。組み合わせに限られると、本当に新しい物を発想できないと思われるだろうが、そうではない。新しい組み合わせは事実上新しい発想だし、その組み合わせが基礎的な概念になれば、さらに新しいことが生まれる。そして、組み合わせではない概念は無理であるとは言い切れないが、少なくとも珍しいし、他の人に説明したり伝えたりするのは大変だ。

このような組み合わせは基本であれば、組み合わせるための材料は必要である。その材料は、経験から受けるので、豊富な経験は一番良い。

このように抽象的に話せば、ヒュームの哲学を思い浮かばせるだろうが、実はそれほど根本的なことを言おうとしていない。むしろ、かなり具体的なことを考えている。例えば、女性の首相は愚か、女性の政治家を見たことがない人は、女性が首相になることは想像できないことは多い。だって、女性は政治家ではない。同じように、男性の保育士は不自然に感じることがある。社会問題から目を離れても同じだ。小説でいつも一人の主人公が敵を倒して勝利すれば、主人公は数人あって、主人公の一人の敵はもう一人の主人公である構成は想像しにくいだろう。

もちろん、天才であればこのようなことは想像できるだろうが、殆どの人は天才ではない。それでも、価値がある行動を実現できる。豊富な経験があれば、より価値があることはできると思える。経験は狭いと思い浮かばないことと取組んで、価値のある成果を上げることは少なくない。例えば、旅行先の町である祭りを見て、自分の地元に合わせて実現することはある。これも、経験が広がったからこそできることである。

豊富な経験にはこの役割があれば、必要な経験を描写できる。過去の経験と違って、そして過去の経験から簡単に想像できない経験であると良い。生憎、このような経験を得るのはちょっと難しい。前の経験に基づいて想像できないとしたら、どうやって見つけるのだろう。それは、次の投稿で考えたいと思う。

経験の均一性

昨日の投稿で、一つの作品では社会的な均一性があると良いと述べた。社会的な多様性は、複数の作品に実現した方が良いと言った。しかし、ここで問題がある。

ある人は、登場人物は異性愛者の男性である作品ばかりを読むとしよう。その人の経験には、多様性はない。女性の可能性についてあまり考えないようになる恐れもあるし、同性愛者を変態な存在としてしか考えない恐れもある。女性や同性愛者が登場する作品は沢山存在するとしても、この人は読まない、見ない、聞かないとしたら、その人の考え方には影響はない。

先ず、これは問題であるかどうかを考えなければならない。確かに、強制的に経験を広げるのは許せない。自由を大きく侵すからだ。しかし、好ましい状態として、経験が広いと、寛容も広がるなのではないかと思える。この投稿で経験の広さの必要性にちゃんと理由づける余裕はないので、とりあえず良いことであるとする。

昨日の投稿に反論する考え方は次の通りだ。一つの作品には登場人物の社会的な多様性があれば、そのようなことは避けられなくなる。黒人の活躍について読まないで済めなくなる。だから、経験が自然に広がる。一方、作品毎の社会的な多様性はなかったら、自分の偏見に沿う作品しか読まないで済むので、問題が解決されない。

先ずの疑問点は、作品の役割は社会を改善することであるかどうか。作品は作品のために存在するとも言える。何のために社会を改善するかとい質問も浮上するが、その答えとして「作品のため」だと言える場合もあるので、作品は社会の改善のためであれば、問題になる。それに、社会を改善しようとすれば、より直接に社会問題と取組むべきなのではないか。私は、社会を改善するために川崎市外国人市民代表者会議などに参加しているが、作品は考えさせるためとか、楽しませるためとか、社会の改善と非常に間接的な関係を持っている。

そして、男性ばかりについて読みたい人からはその選択肢を奪うのは良くない。実質的な自由を制限する行為であるからだ。

その一方、人を良い方向へ導いても良い。どうやってそうすれば効果があるのだろう。

一つの可能性は、一人の作者が自分の作品の多様性に努めることだ。つまり、いつも同じようなことを作成せずに、別な設定などと挑戦することだ。そうすれば、作者のファンになった人は、自然に新しい分野に入るし、作者の腕も鍛えられる。

同じように、一つの話が展開に伴って別な設定に行くことだ。例えば、日本では日本人しかいない(と言えるに等しい)ので、日本を舞台とする話には、日本人しか登場しない。しかし、その話の流れで舞台がイギリスへ移ったら、白人が多く登場する。その話を読んでいる人は、自然に別な文化と接する。

経験の広大は、重要な問題だと思うので、これからさらに考えたいと思う。

フィクションの多様性

今日、TRPGの業界で「多様性」を訴える人が多くなった。ここで「多様性」というのは、TRPGに登場する人物は白人の異性愛者の男性ばかりではないことを指す。女性も、黒人も、同性愛者もキャラクターとして登場させるべきであるとの強調だ。

もちろん、原則として異論はしない。

そして、今セーラームーンのアニメが公開されているが、セーラームーンがフェミニストなアニメであることを称讃する声も上がっている。その理由は、女性のキャラクターは多いので、女性の性格は多様で、うさぎは泣き虫であっても、レイは強いので、女性は必ずしも泣き虫であると言う示唆はないからだそうだ。つまり、女性の登場人物は多いので、一人の登場人物にすべての女性を代表する役割は課されないということだ。

これも、異論はない。

しかし、この二点を合わせると、考えさせられる。

一つのフィクションで登場する人物の人数には限度がある。性格や活動を詳しく描写できるのは、およそ七人までだろう。『七十人の侍』は有名な映画ではないことには、理由がある。しかし、七人があれば、多様性を確保すれば、問題が起こる。

具体例のために、7人にしよう。3人は男性、3人は女性、一人は性別は男女を超える。(これも、重要な多様性として指摘されている。トランスジェンダーの人も含めるべきだと言われる。)そして、同性愛者は男性、女性一人ずつにする。人種だが、白人、黒人、日本人、インド人を二人ずつにしよう。もう気づいたと思うが、性別、何性愛者、人種を合わせたら、登場人物は一人ずつになっている。だから、その登場人物は代表になる。

これは本当に問題であると思う。フィクションには白人は一人しかいなければ、白人を代表することになってしまう。(アメリカであり得ないだろうが、日本にはよくある。)この状態で、本当の意味での多様性は難しい。アメリカ製の映画で、唯一の黒人は悪役であることはないだろう。しかし、社会は本当に平等であったら、問題なくそのような映画は作成できる。今のところ、社会は平等ではないからこそ、作成するわけにはいかない。しかし、黒人の悪役は全くなければ、それは黒人の俳優に対して不公平である。(悪役を演じるのは楽しいそうだよね。)

だから、一つのフィクションには多様性を持たない方が良いのではないかと思ってきた。セーラームーンの多様性は極端的に悪い。日本人の十代の女性ばかり。しかし、そうであるからこそ女性の幅広い可能性を描写できる。一つのフィクションで、多様性を制限した方が良い。

一方、沢山の違った制限を持つフィクションを出すべきである。セーラームーンは女性ばかりだから、男性ばかりの話も必要だ。(それはもちろんある。)セーラームーンは日本人ばかりなので、ケニア人ばかりの話もあるべきだ。もちろん、ケニアについて書ける日本人は、日本について書ける日本人より少ないので、翻訳などを検討した方が良いだろう。

つまり、一つの作品で社会的な多様性を求めるべきではに。むしろ、登場人物の性格的な多様性は必要不可欠なので、社会的な統一性のほうが良いとも言えよう。しかし、問題が潜める。明日また論じたいと思う。