明浄正直は、実は『神社のいろは 要語集 宗教編』での項目ではありません。むしろ、「善・悪」という項目で出てくる。その理由は、神道の善についての感覚は、具体的に言えば、明浄正直である。神社本庁の今の神職の階位はこの字を借りて、直階から浄階まで行く。(権正階もあるので、五階になる。)この内容は何だろう。
『神社のいろは 要語集 宗教編』の「善・悪」という項目は短い。穢や祓についての項目に遥かに及ばない。そして、項目の中でも穢と祓に結びつかれている。本居宣長からの引用で「古へには
しかし、これは非常に抽象的な言い方だ。具体的に、善と悪は何かというと、すぐに答えられない。例えば、清浄を例として考えよう。神道では、血液は穢の代表的な存在だ。血を神社に散らすのはダメだ。一方、古代ユダヤ教では、血を一番神聖な所に塗ったり散らしたりするのは基本的な宗教儀礼である。つまり、「清浄」とういう規範は、血を避けるか塗るかさえも判断できない。
『神社のいろは 要語集 宗教編』にも書いてあるが、起記に見える神道の善悪観にはもう儒教や仏教の影響があるし、近代の儒家神道の倫理観には儒教の影響は極めて強かったのは言うまでもない。明治時代の神道観念は、特に儒教からの影響を受けたとも言える。「教育勅語」は基本的に儒教の観念に基づいていると思う。このブログを読む人は、私が自由を重視することはよく分かると思うので、神道の倫理観をこの立場から考えたいと思う。
「直」はどのようなことだろう。「曲がっていない、歪んでいない」という感覚として捉えたい。でも、これでも抽象的で比喩的である。だから、「本当の目的を明らかにして、その目的を達するための行動の意図を認めること」と言う。つまり、自分の希望を偽らずに、周りの人が自分の目指していることを評価してから応援するかどうかを決めさせる。
「正」は、正しさだろう。倫理的な正しさであれば、何も進歩しないので、事実の正しさにする。つまり、事実を認めて、事実を把握するように、理解するように努めることを指す。
「浄」は、自分の理想像に邪魔になる癖などを排除することにする。
「明」は、輝くこと。周りの人に支えや応援になって、元気を与えることにする。
もちろん、これはまだまだ初段の概念だが、これから発展させたいと思う。しかし、私の神道観念が神社検定に出るはずはないので、復習が終わってからこのテーマに戻りたいと思う。