国家観

『神社のいろは 要語集 宗教編』の項目の一つは、「国家観」という。この項目は興味深い。

最初は、古典では「国」の元々の意味は、水田であると述べる。つまり、海や山と対象になり、人間の生活の基盤となる所を指す言葉であるという。これは、中国の定義と「性格を異にする」(250頁)ことで、中国が統一される自衛力を持つ国家のような存在を「国」で表すそうだ。つまり、神道の国家観の原点は、国家ではない。

そして、国づくりの神話を見たら、さらに興味深い点が指摘される。それは、国づくりはいつの時代でも未完成であることだ。天地開闢では、造化三神の働きで国が現れたが、伊弉諾尊と伊弉諾尊の神話で見えるように、その時点ではまだまだ形は固まっていなかった。それから、項目では指摘されていないが、伊弉諾尊が死去するところで、伊弉諾尊が国づくりは未完成であることを嘆いて、黄泉の国へ行って伊弉冉尊を取り戻そうとする。大国主神の神話で、国づくりはさらに進められるが、それでもまだまだ完成に至らない。その後で、人間が国づくりの任命を担って、国の完成のために勤めるが、結局完成にできないそうだ。

神道の国家観の根底として「むすび」を指摘する。神の産霊から発生した国は、人間も物も同じであるので、人間は物を大切にしなければならないという態度は説かれている。この「むすび」の概念は、神代は今でも生きていることを指して、それに人間は今現在何をするべきか含まれているそうだ。

このような観念を踏まえて、神道に相応しい国家観と愛国心がすぐに思い浮かぶ。

「国」というのは、神の産霊からなってきた生活の拠点の場である。古墳時代の人にとって、それは水田だったが、現代人の生活の拠点は多種多様である。それでも、産霊に根底があるし、いつでも未完成である。環境も人間も同じように産霊から生まれたので、この環境を愛しながら、更なる完成度を目指して勤めるべきである。これで、神道の自然崇拝の要素の一部が簡単に分かる。田の神は、生活を支える土の神として、重要な存在であり、愛するべき存在でもある。そして、故郷の重要性も分かる。生活する場そのものは重要であるので、ある場所に根付くのは当然だ。環境を狭く見れば、故郷である。もう少し広く見れば、日本である。広く見れば、世界である。

ただし、この解釈では天皇には役割はない。神社本庁なら、天皇の役割を強調しなければならないので、『神社のいろは 要語集 宗教編』の項目で強調するが、説得力はない。先ずは、伊弉諾と伊弉冉を皇祖神として位置づけて、伊弉諾と伊弉冉が国土を成り固めたことから天皇が日本を統一して治めるべきであると主張するが、このアーギュメントは成り立たないと思う。そして、伊弉冉と伊弉諾が生んだ国土は「一つに成るもの」で、天皇の下で統一するべきだと言うが、伊弉冉が生んだ国には、北海道も沖縄も含まれていないので、北海道と沖縄を手放すべきであるということになるだろう。それとも、北海道と沖縄は本当の日本ではないだろうか。

項目の最後にチェンバレンという学者が神道の愛国心と尊皇心を「明治の官僚政治家によって発明された新宗教に他ならない」(252頁)と述べたことに反発するが、近代的な愛国心は明治の官僚政治家が発明された可能性は極めて高いと言わざるを得ない。尊皇心は神道の歴史を貫く一つの糸だが、近代的な「日本」の概念さえ存在しなかった。上記の「愛国心」は、神道の様々な発想に合うが、近代的な軍事力を重視する愛国心からほど遠い。その明治時代の概念が戦争を惨禍を招いたことは否めないので、私はその再生を望まないし、歴史的に神道の一部であったとしても、現代の神道から取り外すべきだと言いたいのである。


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