世界観

『神社のいろは 要語集 宗教編』の「世界観」という項目は短いし、一貫するテーマはないようだ。しかし、その理由は最初の段階で述べられている。

つまり、神道は、思想を重視しないからだ。神道は、思想的に世界を捉えるのではなく、そして思想を必要とするとは限らない。(性格的に哲学者である私にとって、この点で神道との違和感を感じざるを得ない。私は、思想が欲しい。)しかし、神道は「無思想」ではなく、「非思想性」があると宣長が言うそうだ。

「非思想性」とは何だろう。宣長によると、古典には「道こそ有けれ」そうだが、その道を指摘する思想はない。つまり、道を考えずに歩む。そして、儒教や仏教のような外来の思想が入ってきて、神道も思想を帯びるようになったそうだ。このような発展は当然だと思う。周りの人は皆ある考え方や世界観を共有すれば、言葉にして説明する必要はない。ある人がその世界観に違反すれば、あの人の悪心に当てられる。しかし、その考え方を明らかに共有しない人が入ってくると、自分の考え方を説明しなければならなくなる。そうすると、相違点が浮き彫りになる。キリスト教の歴史で、正当性を巡る論争も戦争も頻繁に勃発する。神道は、そうではない。

非思想性を帯びる宗教では、行動は正しかったら、その後ろに秘める思想に気にしなくても良いからだろう。今でも、神社にはだれでもお参りできるのは、神社側の原則だ。祭祀の参加も、定まった行動に従う限り、誰でも参加できるのは原則だ。その行動を説明しなければならないが、それだけだ。祭祀の「意味」などは重要ではない。

この事実を考えれば、神道にははっきりした来世観はないことは驚くほどではない。平田篤胤がよち具体的な来世観を成立しようとしたが、広く受け入れられなかったようだ。少なくとも、最近表に出ない。

『神社のいろは 要語集 宗教編』でさらに指摘された思想は、何の事でも、果たすためには時間も辛苦も必要であることだ。凶悪と吉善が交替するが、果たして吉善に終わるという考えだ。しかし、それは現世にある事実だ。来世ですべてが極楽になるのような思想は一切ないと言う。

このように現世を重視するのは良いと思うし、楽観的な解釈であるとは言えない。ただし、吉善になることで、絶望的な解釈でもない。この世で勤める人には相応しい考え方だろう。

私的に発展すれば、神道で道を提供する。その道を歩めば良い。道についてどう考えるのは、かまわない。心の中を覗かないし、覗こうともしない。そして、この道は、この世の道で、辛苦があることに覚悟して歩むが、続けばやがて稔がある。


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