「恩頼」は、神の御霊の威力からの恩恵であり、特に守護的・増強的な恩恵であると『神社のいろは 要語集 宗教編』が述べる。辱く感謝を含む言葉でもあるが、「みたまのふゆ」という読み方は予想外だろう。「神恩」の字も「皇霊之威」の字も当てられるそうだが、この言葉の基本的な意味は何だろう。
「みたま」はもちろん「御霊」を表す。和魂と荒魂と同じように、神の魂である。「ふゆ」は、「振る」と同じであると言われるが、諸説あるようだ。例えば、折口信夫が「触れ」との関連性お指摘して、「殖ゆ」と関わるという。つまり、神の御霊に触れて、その御霊の威力の助けや力を得ることを言う言葉である。
古代には、御霊の信仰と密接で、外来する魂を祭る「御霊祭り」を指したことがあったそうだ。特に、平安時代の半ば頃から、年末に死者の魂を祭る「御魂の冬」という祭りがあったそうだ。この祭りは、魂には感謝を表す儀式だそうだが、他の意味もあった。
その一つは、祭りによって、神の魂の威を増すことだった。この意味の中で神様の御魂を神輿などで出して、振ることを指す場合もあるそうだ。この「ふる」は、「ふゆ」に通じるそうだが、感謝を表したり、神様の威力を取り戻したり増したりする行動も意味するそうだ。
鈴木重胤がこのような解釈に賛同して、「御魂の神」の論説も提唱した。この論説で、主神と該当する魂神があるといい、この魂神が主神と一緒に働き、神の御徳をさらに増すということだ。
この概念は鎮魂祭と深く結びついているが、鎮魂祭はもともと御魂をしずめるではなく、振って、活気を与える祭りであるという。
このように冬に衰える魂に力を戻す概念は、世界中に見えるので、日本にもあるのは当然だろう。しかし、神道の他の概念と合わせたら、特に相応しいと思う。例えば、穢れで魂の活力が衰えるので、祓で障害物を取り除くし、そして恩頼で活力を与える流れは明らかに自然である。
鎮魂祭のような儀式には超能力があるかどうかは、分からない。しかし、人生についての考え方として有意義であると思わざるを得ない。活力などがなくなると、儀式に参加して、その活気の復活を目指すのは良い。復活を本気に目指せば、それは大変重要な一歩だから、儀式自体には効力はなくても、参加する事から結果は期待できる。
そして、人間の行動や祭りから神の威力が増すことも、神道の良い考え方だと思う。人間は神に依存することではなく、一緒に働いて、努めて、この世を成す。人は神から活気を得て、神も人間から威力を得る。これも瞬間で、持ちつ持たれつの世界だ。