惟神

「かんながら」は、「惟神」「随神」「随在天神」「神奈我良」などと表記され、『神社のいろは 要語集 宗教編』では「神ながらの道・惟神の大道」という項目で取り扱われている。「随神の道」は、神道の根本的な本質を表すために使われていたが、実はこの古代からある用語の意味は今なお不明であるようだ。

文献の所見は『日本書紀』の「高徳天皇紀」にあり、「随神」の漢字で、「かみならがも」の読み方が付いている。文脈は、天皇の統治についてだから、その統治の本質を表す表現であると思われる。そして、割注もあるが、この割注は意味をなさない分であると主張する学者さえいるそうだ。一つの解釈は、「神の随に」であるので、「神のみこともちて」「神に従って」などの意味になる。『日本書紀』では、天皇の統治はそのように描写されているので、相応しいだろう。もう一つは、「惟神」を「これ神」や「ただ神」として読むべきと主張する人もいるそうだが、こうなると、神そのものの意味で、神の本質を指す言葉になる。

割注の解釈にすれば、『神社のいろは 要語集 宗教編』では、この意味を両方示すと言う。つまり、「神(神道)に随って、しかもそれ自体、本来、神性を具有するという意」(80頁)と解釈する。

平安初期までこの「惟神」は主に天皇について使われたそうだ。『続日本紀』の宣命で19ヶ所見えるそうだし、『万葉集』でも19ヶ所ある。『続日本紀』では、「随神」の表記は過半数を占めて、「神奈我良(母)」はその残りである。『万葉集』の表記は豊富だ。「神随」「神在随」「神長柄」「神奈我良」「可武奈可良」「可無奈我良」「可牟奈我良」があるそうだ。(『万葉種』での読み方は明らかに「かむながら」であるが、古代の「む」が現代の「ん」になっている例は少なくない。)宣命では、天皇の統治の神聖性などを意味するが、『万葉集』で広がるそうだ。そして、平安時代になると、もっぱら神について使われるようになった。

近世になると使用例が増えるし、当字も多くなるそうだ。この時代の使い方には、「自然」の意味は多く、そして古のようで、日本らしい意味もあった。だから、幕末と明治維新になったら、「惟神の大道」という表現は、日本の万国の中で卓越する皇道をさすために用いられたそうだ。

神道の思想では、「惟神」の考え方は重要だと思う。特に、ここで紹介したすべての解釈は重要だ。神を模範として仰いで歩む事は、生き方の思想だ。中今でちゃんと生きるということだ。そして、神の本質を持つことも、重要な考え方である。人間は、本質として神と同質であるのは神道の人間観の重要な一部である。自然に自由に自分の本質の通りに動くのも重要だ。最後に、日本の歴史や伝統に根付いていなければ、「神道」だとは到底言えない。

そして、私の今作っているTRPGの名前として、Kannagaraを使っている。それは、神道の本質を表すことと、TRPGの中で神様の命令に従って動くし、神様になることは主な行動だからである。

それで、ここで事前に用意する過程で検定試験の朝になっているので、ここでこの投稿のシリーズが終わる。試験についての感想は、この投稿を公開する前に公開するつもりだが、私のこの時点では、どうなるか分からない。頑張る!


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