では、動物に権利があるかどうかは分からない状況下、どうするべきだろう。先の投稿で述べた問題から考えれば、「念のため、権利があるように扱おう」という方針はとれない。酸素の分子まで権利を認めることはできないし、肉食動物の権利を認めたら、草食動物の権利を脅かすからだ。一方、動物には一切権利はないような扱いのは無責任だろう。確かに、酸素の分子やウィルスには権利はない最終結論の確率は高いだろうが、イルカや猿、豚や犬には権利がある可能性には配慮するべきだと言えよう。
ここで提案するのは、ただ私の今のところの考えだ。絶対的な鉄則からほど遠い。
先ず、人間を動物より大きく優先する。特に、権利の可能性に配慮するために、確実にある権利を侵してはいけない。これは、人間を絶対的に優先することにはならないが、人間の命か、動物の命か、という選択肢に強いられたら、人間の命を救わなければならない。動物の一種の絶滅を防ぐために、少数の人間を死の恐れに晒されてもよいかというと、難しい問題と言わなければならない。その選択肢にならないように、事前から努めるべきだ。
その上、動物には不要な苦しみを与えないようにするべきだ。例えば、食肉を作るために豚を殺す場合、豚が苦しまないように殺すべきだ。同じように、飼育する間にも苦しまないように工夫するべきだ。現行の農業制度がこの条件を満たさないので、改善が必要となる。ペットの扱いは基本的に大丈夫だと思うが、動物園などでも改善が求められるだろう。それでも、これは最近の社会の流れと沿っているので、急激な変更を必要としない。
そして、動物に、生きている間に自分の人生の計画を立てて、実現しようとすることができるような環境は整えるべきだ。もちろん、人間のように将来を創造して計画を詳しく企てるわけはないが、動物には動物なりに計画があるだろう。自由に移動したり、自由に子供を設けたりするのは重要だと思える。この点でも、人間の生活や年の開発の場合、考えなければならない。道路で動物の移動通路を遮断することは少なくないし、住宅地が動物にとって万里の長城のような存在になることもあり得る。そして、農業の拡大のために、米や小麦を育てるつもりである場合でも、田圃や畑を作るために野生動物が棲む森や野原を破壊する。そのような行動に制限を課すべきなのではないか。
このような方針を一括に言えば、「大自然との共存」であるのではないか。神道の基本的な考え方として謳われるが、実現できるのかな。