先日、大阪高裁が朝鮮学校の周辺での差別的な演説などをヘイトスピーチと見做して、1200万円程度の損害賠償と学校の周辺での活動停止を命じた。演説する団体は、表現の自由を訴えて、最高裁に上訴するつもりを明らかにした。
私はもちろん関心を持っている。日本に住んでいる外国人に対するヘイトスピーチや差別は、人の問題ではない。団体の演説などを評価しないのは言うまでもないが、法律で制限するべきかどうかはそう簡単ではない。表現の自由を厳守するべきであると思うことも言うまでもないだろう。
結論から言うと、大阪高裁の判決に賛同する。
学校に通っていた児童には精神的な損害があったそうだし、学校へ通う自由も制限された。恐れながら学校に通うのは良くないことだ。そして、長期的な打撃を考えれば、心配する理由は充分ある。だから、表現を制限しなければならない。
では、理念は何だろう。次の通りだと思う。表現の自由は絶対的だ。内容は何であっても、表現する自由を保つべきだ。一方、その表現を無視する自由もある。たまたま聞きたくないことが耳に入ることは、社会に生活することだから、許すべきだ。その場所を離れて、聞かないところに退くのは良い。しかし、表現を避けるのを難しくする行為もある。今回の行動はそのようなことだった。学校の周辺で差別的なことを強調したし、旗などを振っていたので、避けるために学校に行かない選択肢しかない。それは許せない。
だから、大阪高裁の判決の一部に疑いなく賛成できる。学校周辺での活動を明確に禁じるのは良い。ネット上で演説しても良いし、会場を借りて演説会を開いても許さなければならないが、学校の周辺での活動は禁じるべきだ。「この場所でこのような表現をするな」というのは、表現の自由の制限に至らない場合もある。(「この場所」が広くなればなるほど、制限になりつつあるけれども。)
損害賠償も適切だと思う。学校の関係者に止めるように願われたはずだが、それを無視して続けたので、その行動から発生する損害は行為を犯した団体の責任だ。このような精神的な損害に適する賠償額を定めるのは容易ではないので、詳細がわかった裁判所の判決に意義する根拠はない。実は、このような損害であれば、賠償で損害を直すことはできないので、責任がどこにあるかを明らかにする役割は金額と同じ重要性があるとも言えよう。
これを一般化すれば、作品の場合、何の作品でも作って公開する権利があるが、その作品を見ない権利も他人にある。だから、現行の制度でポルノの制限は良くないと思うし、町中の宣伝の立場も危ういとも思う。宣伝を見ないように選択できないからだ。「この場所」が非常に広くなっている。同じように、誰でも批判する権利はあるが、その人には批判を無視する権利もある。だから、自分のブログで他人を厳しく批判しても許すべきだが、本人のブログのコメント欄で批判する行為は制限できる。自分のブログのコメント欄は無視できないからだ。
表現する自由と見ない権利のバランスをとらなければならない。大阪高裁の判決は、そのバランスをとっていると私は思う。