ちょっと前の『神社新報』(5月26日付)には、挨拶についての記事が載った。その記事は、ある出来事から始まった。
電車には、筆者と、向こうに年配の女性一人、そして小学校高学年の男性二人がいたそうだ。女性が小学生に話しかけたが、小学生が返事しなかった。しばらくすると、小学生が立って、「知らない人と話してはいけないことになっています」と強い口調で言いながら、去ったという。女性はちょっと起こったが、筆者は少年には悪気はなかっただろうと言ったそうだ。
しかし、保守派は、むしろ少年を褒めるべきなのではないか。「ダメなことはダメ」とはっきり言う勇気は、促される。そして、親にも、学校にも、警察にも知らない人と話すことはダメであると言われた少年は、その行為をダメであると信じるべきなのは明らかだ。特に、保守派から見れば、子供が親や学校や警察の禁じる行為についてやっても良いかどうかを考えて、そしてやることに決める行動を堅く批判すると思う。
もちろん、女性も悪くない。数十年前なら、このような教えはなかったので、女性は自分の行為はダメなことである事実に気づかなくても驚かない。しかし、少年に教えられたので、これから止めるのだろう。
実は、私は「知らない人と話すな」という命令について疑問を抱く。知らない人と一緒にどこかへ行くのはダメだし、「知っている人」は、子供にとっては「親が知っている人」という意味であることを説明しなければならないが、挨拶を交わすのは良いし、それよりちょっと世間話しても良いと思う。個人情報についてちょっと慎重にするべきだが、「自分のことについて話してはいけない」と教えたら良い。殆どの人は子供を狙わないし、近所の絆があると、事故も事件も防止することが期待できる。
しかし、子供が自分でこのように考えるのは危険。子供とは、この世の中をよく分からないし、間違えることも多いので、親の指導に従った方が良い。
この出来事は、「ダメなことはダメ」という言葉の問題を浮き彫りにする。ダメなことの定義は非常に曖昧だ。もしかして、誰でもダメだと思う行為があるだろう。殺人や強姦、窃盗や詐欺はそうかもしれない。これでも疑う余地が残るが、認めても最低限の倫理に過ぎない。2500年前の孔子の時代なら、この最低限を推進する必要があったかもしれない。保守派は信じたくないと思うが、実は乱暴や窃盗の頻度が時間の流れと一緒に減ってきた。だから、2500年前に、「人を殺すな」のようなことは、反論を呼ぶ役に立つ宣言だったと思える。現在の日本では、当たり前なことになっている。
最低限が当たり前になったら、人がしようとする「ダメなこと」が不明になる。外国へ行くのは、ダメなこと?鎖国の時代はそうだったが、今はそうではない。女性が自分の意志で実家を出て、仕事に就くのは、ダメなこと?100年ぐらい前なら、ダメだったが、今むしろそれを止めようとする親の行為はダメだ。では、同性愛の肉体的な関係はダメなこと?私はダメではないと思うが、同意しない人は今でも少なくない。
だからこそ、倫理には原理が必要だと思う。原理はないと、自分の時代の偏見から脱出できないし、倫理についての議論には決着がつかない。私は、人生の計画の自由を訴える理由は、これだ。