学校で、先生がどのような生徒に集中するべきだろう。すぐに思い浮かぶのは、問題のある生徒だろう。授業の内容を難しく感じて、すぐに理解できない生徒や行動に問題がある生徒の対応は急務であると思えるので、先生の努力はその方向へ流れるのは当然だろう。英語の諺で「鳴る車に油」と言う。
一方、この方針は不平等であると訴える人もいる。問題の子に集中すれば、問題を起こしていない子供には指導が不足するからだ。確かに発達がゆっくりとする子供には悪気はないが、それでも平凡な子供から先生の努力を奪うことは良くない。行動に問題がある子はさらに。そして、才能がある子供についても問題が指摘される。その才能に合わせて指導すれば、子供の才能が発達して、社会に大きな利益を齎す可能性があるが、そのような指導はないと、才能が咲かないだけではなく、子供の不満から問題の行動が発生することさえあるという。
これは確かにそうだ。ただし、個別指導ではない限り、先生の努力にも注目にも限度がある。一組にいる子供の人数を減らしたら、この問題が緩和されるが、そうするために大きな予算も必要となるし、教師も必要だ。他のキャリアより教師を選ばせるために、教師を収入を増やさなければならないと思えるので、さらに莫大な予算が必要になる。無理ではないだろうが、現実的でもない。(ただ、少子化で学童の数が減るし、年金問題を解決するために定年を引き上げるはずだから、一組の児童数が自然に減る可能性もある。)
現実の状況を考えれば、どうすれば良いだろう。今の分布がそのまま維持されるしかないだろう。でも、その中で一つの注意点がある。
普段は、学童には勉強を命令する。例えば、算数のプリントに記入すること。そして、先生が見守って、問題がある子を手伝う。問題はない子は、自分なりに終わらせる。能力は高い児童は、比較的にすぐに終わらせる。終わったら、どうするか?最低限は、自由にさせること。他の児童の邪魔にならない限り、本を読んだり、絵を描いたりしても良い。それより良いことは、独学をさせること。それを可能にするために、教材を用意しなければならない。児童の興味に答える教材を配るために、学校には沢山あると良い。これで、タブレット端末などが役に立つだろう。
この教材は、基本の授業内容と重ならない方が良いと思う。重なったら、独学で学んだ内容はつまらないからだ。だから、義務教育の内容を超えるテーマは良い。宇宙から神道まで、江戸時代の美術史からパソコンの操作までの幅広い可能性がある。先生の責任は、教室の秩序を維持しながら、基本内容が制されることを保障することになる。それ以外の内容は、コンクールのような形で、有志によって見てもらう。(先生の責任を増やすわけにはいかない。)
天才は、基本の勉強をあっという間に終わらせるので、学校の大半は独学になるだろう。でも、それは良いことだ。平凡な子でも、ちょっと時間があるはずだから、5分単位で勉強できる教材は好ましい。このような教材を用意するには努力は必要だが、先生の数を大幅に増やすほどの事業ではないので、現実味があるのではないかと私は思う。