妄想と成長

自分の能力や将来について現実的な意見を持った方が良いとよく言われるが、私は疑問を抱く。誇大妄想の方が良いのではないか、と。

先ず以て、誇大妄想を抱くと、失敗する可能性は高くなるのは確実だ。自分の能力を超える計画と取組めば、成功させるはずはなかろう。それでも、できないことを目指した方が良いかと思う。

なぜなら、できることに目標を絞れば、今できる範囲を超える希望がなくなるからだ。今までできたことを繰り返して、これしかできないような考え方が固まる。一方、それを超越する的を目指せば、新しい能力を鍛えるかもしれない。成長するために、今できないことを目指さなければならない。成長と言うのは、今持っていない実力を身に付けることとか、知恵を増すことなどを指すのではないか。

反論が予想できる。「これは誇大妄想と大きく違う。現実的に獲得できる技能を目指すのは適切である」と。聞いたら、説得力があるのは否めない。それでも、間違いであると確信する。

説得力は、否めない極端な場合から発生すると思う。今すぐに力を遥か超えることを試したら、失敗に終わる事実だ。私はそらを飛べるようになりたかったら、今窓から飛び出したら、落ちて大怪我をする。それは確かによくない。だから、現実の把握はある程度必要だ。

しかし、最終的な目標は、空を飛ぶこととか、月に住むこととか、死者と話すことなどを目指したら良い。江戸時代の人間であると思ったら、この三つは無理であると思うだろう。死者と話すことは可能かもしれないが、飛ぶとか、月に行くなどはあり得ない。現在であれば、空を飛ぶために、飛行士の免許を取れば良い。自分で操作しなくても良かったら、ただ単に切符を買っても良い。簡単なことになった理由は、無理な夢を抱いた人が頑張ったことだ。月に住むことは、方法は一応分かるが、実現するために多くの努力だけではなく、重要な発明も必要とされる。死者と話すことは完全に無理だお言われるので、方法探しには苦労は付くだろう。

つまり、行き先は無理のように見えるので、それに向かって可能な道を探す。

失敗することは多い。殆どの人は失敗する。しかし、目的地に至らなくても、重要な発見があることも少なくない。そして、発見はそれほど重要ではなくても、自分の技能が磨かれ、成長することもある。とは言え、完全に失敗に終わることも認めなければならない。

だから、失敗を認めるのは重要だ。失敗を回避すれば、成長も回避してしまう。社会的にも、妄想を追って人生を費やした人を軽蔑するべきではない。失敗したが、旅立ちの時点で失敗に終わるのは予想できなかった。仮に成功に終わったとしたら、偉大な業になっただろう。だから、理不尽なことを追う人を批判しない。このような誇大妄想から社会的な利益が生まれる。


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