フィクションの多様性

今日、TRPGの業界で「多様性」を訴える人が多くなった。ここで「多様性」というのは、TRPGに登場する人物は白人の異性愛者の男性ばかりではないことを指す。女性も、黒人も、同性愛者もキャラクターとして登場させるべきであるとの強調だ。

もちろん、原則として異論はしない。

そして、今セーラームーンのアニメが公開されているが、セーラームーンがフェミニストなアニメであることを称讃する声も上がっている。その理由は、女性のキャラクターは多いので、女性の性格は多様で、うさぎは泣き虫であっても、レイは強いので、女性は必ずしも泣き虫であると言う示唆はないからだそうだ。つまり、女性の登場人物は多いので、一人の登場人物にすべての女性を代表する役割は課されないということだ。

これも、異論はない。

しかし、この二点を合わせると、考えさせられる。

一つのフィクションで登場する人物の人数には限度がある。性格や活動を詳しく描写できるのは、およそ七人までだろう。『七十人の侍』は有名な映画ではないことには、理由がある。しかし、七人があれば、多様性を確保すれば、問題が起こる。

具体例のために、7人にしよう。3人は男性、3人は女性、一人は性別は男女を超える。(これも、重要な多様性として指摘されている。トランスジェンダーの人も含めるべきだと言われる。)そして、同性愛者は男性、女性一人ずつにする。人種だが、白人、黒人、日本人、インド人を二人ずつにしよう。もう気づいたと思うが、性別、何性愛者、人種を合わせたら、登場人物は一人ずつになっている。だから、その登場人物は代表になる。

これは本当に問題であると思う。フィクションには白人は一人しかいなければ、白人を代表することになってしまう。(アメリカであり得ないだろうが、日本にはよくある。)この状態で、本当の意味での多様性は難しい。アメリカ製の映画で、唯一の黒人は悪役であることはないだろう。しかし、社会は本当に平等であったら、問題なくそのような映画は作成できる。今のところ、社会は平等ではないからこそ、作成するわけにはいかない。しかし、黒人の悪役は全くなければ、それは黒人の俳優に対して不公平である。(悪役を演じるのは楽しいそうだよね。)

だから、一つのフィクションには多様性を持たない方が良いのではないかと思ってきた。セーラームーンの多様性は極端的に悪い。日本人の十代の女性ばかり。しかし、そうであるからこそ女性の幅広い可能性を描写できる。一つのフィクションで、多様性を制限した方が良い。

一方、沢山の違った制限を持つフィクションを出すべきである。セーラームーンは女性ばかりだから、男性ばかりの話も必要だ。(それはもちろんある。)セーラームーンは日本人ばかりなので、ケニア人ばかりの話もあるべきだ。もちろん、ケニアについて書ける日本人は、日本について書ける日本人より少ないので、翻訳などを検討した方が良いだろう。

つまり、一つの作品で社会的な多様性を求めるべきではに。むしろ、登場人物の性格的な多様性は必要不可欠なので、社会的な統一性のほうが良いとも言えよう。しかし、問題が潜める。明日また論じたいと思う。