経験の均一性

昨日の投稿で、一つの作品では社会的な均一性があると良いと述べた。社会的な多様性は、複数の作品に実現した方が良いと言った。しかし、ここで問題がある。

ある人は、登場人物は異性愛者の男性である作品ばかりを読むとしよう。その人の経験には、多様性はない。女性の可能性についてあまり考えないようになる恐れもあるし、同性愛者を変態な存在としてしか考えない恐れもある。女性や同性愛者が登場する作品は沢山存在するとしても、この人は読まない、見ない、聞かないとしたら、その人の考え方には影響はない。

先ず、これは問題であるかどうかを考えなければならない。確かに、強制的に経験を広げるのは許せない。自由を大きく侵すからだ。しかし、好ましい状態として、経験が広いと、寛容も広がるなのではないかと思える。この投稿で経験の広さの必要性にちゃんと理由づける余裕はないので、とりあえず良いことであるとする。

昨日の投稿に反論する考え方は次の通りだ。一つの作品には登場人物の社会的な多様性があれば、そのようなことは避けられなくなる。黒人の活躍について読まないで済めなくなる。だから、経験が自然に広がる。一方、作品毎の社会的な多様性はなかったら、自分の偏見に沿う作品しか読まないで済むので、問題が解決されない。

先ずの疑問点は、作品の役割は社会を改善することであるかどうか。作品は作品のために存在するとも言える。何のために社会を改善するかとい質問も浮上するが、その答えとして「作品のため」だと言える場合もあるので、作品は社会の改善のためであれば、問題になる。それに、社会を改善しようとすれば、より直接に社会問題と取組むべきなのではないか。私は、社会を改善するために川崎市外国人市民代表者会議などに参加しているが、作品は考えさせるためとか、楽しませるためとか、社会の改善と非常に間接的な関係を持っている。

そして、男性ばかりについて読みたい人からはその選択肢を奪うのは良くない。実質的な自由を制限する行為であるからだ。

その一方、人を良い方向へ導いても良い。どうやってそうすれば効果があるのだろう。

一つの可能性は、一人の作者が自分の作品の多様性に努めることだ。つまり、いつも同じようなことを作成せずに、別な設定などと挑戦することだ。そうすれば、作者のファンになった人は、自然に新しい分野に入るし、作者の腕も鍛えられる。

同じように、一つの話が展開に伴って別な設定に行くことだ。例えば、日本では日本人しかいない(と言えるに等しい)ので、日本を舞台とする話には、日本人しか登場しない。しかし、その話の流れで舞台がイギリスへ移ったら、白人が多く登場する。その話を読んでいる人は、自然に別な文化と接する。

経験の広大は、重要な問題だと思うので、これからさらに考えたいと思う。


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